なぜ黒人はいまだに差別に苦しまなくてはいけないのか そのに

Black lives matter !

をきっかけに、自身のアメリカ史の知識を整理している記事の第二弾です。第一弾を見ていない方はこちらへどうぞ。


・正当化された隔離政策

民主主義の国アメリカで、人種による隔離を合法のままにしておくためには、有色人種に選挙権を認めないことが必要だった。

投票税を払わない者、読み書きテストに合格しない者に参政権を与えない

とする州法が、アメリカ南部を中心に成立。貧困層の白人は地域の白人有力者に払ってもらい、テストは人種ごとに難易度を分けて、とにかく、黒人の意志を政治に反映させないよう、巧妙な作戦が練られた。

内政不干渉の原理からアメリカ連邦政府はこれらを指摘しなかった。第三世界の支持獲得のため、冷戦下で連邦政府の対応みなおしが迫られるまで、70年近く続いた。



・第二次世界大戦後のアメリカ

「人種、性、言語または宗教による差別のない全ての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」

を目的に、第二次世界大戦後、ニューヨークに設立された国際連合。アジア、アフリカの国からも外交官が国連本部や首都ワシントンに派遣された。

南部に位置するワシントンでは、有識人種である「第三世界」諸国からの外交官は隔離地区に住むこと、その子供たちは隔離学校へ通うことを強いられた。

当時、アメリカはソ連との冷戦期であり、これら第三世界諸国の支持を獲得することが勝利につながることは明確だった。


また、第二次世界大戦中のアメリカ軍は人種に関係なく構成されていた。しかし、ドイツ人捕虜が白人用の前方座席を優先的に割り当てられるのに、黒人はアメリカのために戦っても後方座席に座らされる。国内でも疑問視する声が上がった。


1954年、人種に基づく隔離の強制を本質的に不平等、として違憲判決を下した。これが歴史に残る「ブラウン」判決である。



・ブラウン判決に対する反発

人種による隔離は違法と、判断されたにも関わらず、白人市民はそれを認めようとしなかった。

1957年秋、アメリカ南部に位置するアーカンソー州リトルロックの名門校に、黒人の生徒9名の入学が決まった。名門校に通うことは白人の特権だったのに。黒人の生徒が通う学校にはうちの子を通わせられない。白人住民は暴動を起こした。

そのため大統領は連邦軍を、黒人生徒の通学のために派遣した。

翌年に同学校が閉校となり、人種隔離された私学として再開校したため、9名の黒人生徒は1年間しか通うことができなかった。


このころから黒人の平等を求める公民権運動がスタートしだす。

黒人女性がバス運転手の命令(違法)を無視して、白人男性に席を譲ることを拒否。運転手は警察署前でバスを止め、彼女は逮捕されてしまった。すぐ保釈されるも、裁判が開廷される月曜日にバスに乗るのを拒否。これがかの有名な「モンゴメリー・バス・ボイコット」である。


つづく。


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