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タビナスジェファーソンとは何者か?


僕の文章を読むにあたり、僕自身を知って読むののとそうでないのでは受け取る情報や質が異なると思い今回は タビナスジェファーソンとは何者か? を書く事にした。

正直、自分で自分の過去を振り返ったりそれについて話す経験はほとんどないし少し恥ずかしいが、自分がどういう人間か知ってほしいのでぜひ最後まで読んで頂きたい。

それでは本題に入ろう。

本名 タビナス ジェファーソン デイビット
1998年 8月 7日

ガーナ人の父とフィリピン人の母との間に生まれた。
男三兄弟の次男で東京育ち。悪そうな奴はだいたい友達…ではない

ここまではインターネットで検索すれば出てくる。
もう少し詳しく書いていく。

外国人の両親は日本語を話すことができきない。正確には日常会話ならなんとかできるレベルである。


なので家での言語は必然的に英語になる。

小学校の三者面談は僕が通訳をしていたので自分に不利益な情報は自分の中でとどめいいことばかりを通訳していた。
帰り道の母はいつも上機嫌だった記憶がある。

中学に入り英語の先生が現れたことによりこの作戦は通用しなくなった。


おばあちゃんの家にいけばタガログ語
というフィリピンの言葉で話す。

そう、僕は3カ国後話すことができる。

ちょっと待て、日本語はどこで覚えたんだ?
そんな声が聞こえてくる

両親が共働きだったため僕は保育園に通っていてそこで日本語を覚えた。
今考えるとやっぱり環境は大事だ。
何の努力もせずに3カ国語を習得することができたからだ。


年長の時に近所の友達に誘われ
FC早稲田に入団する事になりそこでサッカーと出会う。

小学生の頃は生意気な子供だったことを覚えている。
練習しなくても試合で活躍できることを知ってから毎週の試合だけにいくようになった。
あの頃は、サッカーの練習よりも野球の練習をしていた。
地元の野球チームに入団してくれと言われるほど上達していた。

小学五年生の時
練習に来なくてもあいつは試合に出れるなんて
ずるいと当時チームメイトやの監督から言われるようになり、Bチームに落とされた。

小学四年生の時から六年生のAチームでプレーしていた僕は当時そんな理由で落とされたことが悔しくて、それからはちゃんと練習に行くようになった。


中学校入学と同時にFCトリプレッタ渋谷というクラブチームに入団する。

初めは、進学先の中学校のサッカー部に入ろうと思っていたが、トリプレッタの代表の米原さんが来て欲しいと直々に電話してくれたことがきっかけで入る事になった。
今思うと、人生の一つ目の分岐点だったと思う。

中学校時代にサッカーの奥深さを知ることができたからだ。

トリプレッタ渋谷にはホームグランドがなく毎日違うグランドで練習うをしていた。
そのおかげで当時の僕には東京のほぼ全ての電車の名前と停車駅をいえる特技ができた。 今はできないが…

中学時代の僕はというと人間としてダメだった。

具体的には、時間が本当に守れなかった。

電車に乗らなければいけない時間に家を出たり、朝学校に行く時間に起きたりしていた。
それを見かねた僕の友人は、毎晩僕にこの時間の電車に乗るからこの時間に家を出てと僕の家の最寄駅からの時間を送ったりしてくれていた。

そのおかげで遅刻は格段に減ったし、5分前行動を身につけることができるようになった。

FCトリプレッタでは主に中盤とセンターバックをやることが多かった。
2年の最後には完全にセンターバックにコンバートされた。

中学3年の夏に大きな決断をすることになる

桐光学園と当時J1のユースチームからオファーを受けることになった。

悩み抜いた末に、桐光学園に進学することに決めた。正直どちらも魅力的だったが最後の最後に高校サッカー選手権に出たいという思いで桐光学園進学を決意した。

夢である高校サッカー選手権には2度出る事ができた。
一度目は3回戦で青森山田に2-0でリードしていたが、最後の4分で同点に追いつかれPK戦により負けた。

今でも思う
あの試合勝っていれば優勝してた。
そのくらい強い自信があった。

でも、負けたってことは実力不足だった。

2度目の選手権は記憶がない。
正確に言うと記憶から消した。

年を越すことができなかったからだ。

中学を卒業する時僕は自ら寮生活を希望した。
実家から桐光学園は40分くらいで着くがこれから先の3年間をサッカーに捧げたいと家族に伝えたところ
最初こそ反対されたが、最終的に1ヶ月に一度帰ると言う条件付きで寮生活をさせてもらうことになった。

最初の3ヶ月はホームシックになった。
学校 グランド 寮 毎日同じことの繰り返しに思えた。

桐光学園の寮は特殊だった。
門限もないし、サッカー部は四人しかいなかった。
僕はこの四人にすごく救われたし特に同部屋の奴とは、毎晩のように絶対にこの3年間で成功しようと励ましあったのを覚えてる。

今思うとこれが青春か。
その時は変化に対応することに必死で忙しくてそれすらも感じれなかった。

と このように高校生活に関しては語り出したらキリがないのでまた次の機会にでも話そうと思う。

高校一年生の時に左サイドバックにコンバートさた。
インターハイの予選で初めて公式戦でフル出場した。真夏だったのに無限に走れるような気がして楽しかった。
一年生の時からトップチームに試合に出ていたが足を引っ張ってばかりだった気がする。

沢山怒られた。

高2の冬に僕は初めてプロクラブからオファーを受けることになった。

オファーがあると監督から伝えられた時はこんなにもあっさりしているのかと思った記憶がある。

それから、高3の夏にかけて計6クラブからオファーをいただいた。
正直びっくりした。こんなにも多くにクラブが僕にオファーをくれることになるなんて思ってもいなかった。

この詳細は、長くなるのでまた今度。

川崎フロンターレ2年
FC岐阜1年
ガンバ大阪1年

そして、5年目の
2021シーズンからは水戸ホーリーホックでプレーする事になる。

ざっと駆け足になってしまったが

理解できない部分や
ここはどうなの?

と思う部分があれば、僕のSNSを通して質問していただければ、答えようと思う。

見苦しい文章だったのにも関わらず
最後まで読んでいただけたことに感謝しています。

それではまた次の投稿で🤞🏾




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