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在宅with kids地獄からの奪還

しばらく書くことから離れてしまった。在宅地獄で、“書けないことに近づいた”という方が近い。なんのこっちゃ。

なんにせよ、お久しぶりです。少しだけ落ち着いたので、この間の地獄について振り返ります。よかったら、暇つぶしに読んでいってくださいね。

在宅が天国なら、在宅 with kidsは地獄。この2ヶ月は、どうも地獄の中にいたようです。地獄と言えるものかどうか、それは読みながら捉えてみてください。

状況にいざ呑み込まれたら、その状況が正しいか間違いかどうかは分からない。なにせ自室以外の暮らしに、比較しようがないですもん。その状況を自覚するだけで、ひと月はかかったような気がします。

4月。さぁ、緊急事態だ。春のおめでたい空気もない。エイプリルフールのネタを考えてる場合でない。ひとりで何もできない子供を観ながら、いざ生活を、仕事と家事をしますぞ。

…なんてことは無理で(笑)これでも手際は良い方だ。最高に手際よく、テキパキ動いてるつもり。つもりでも、やることが積もる積もる。無理なものは無理だった。子供は大人をかまってくれない。

作業やオンラインMTGに乱入しては引き剥がす。やむなく長時間スマホやオンラインビデオで暇を潰させる。家事に追われて夜は遅くなり、UberEatsや宅配に頼って栄養バランスの悪い食事を与えてしまう。お風呂が遅くなって寝てしまう。

保護者として罪悪感を抱かないほうが無理がある。罪悪感とストレスから幼子にあたっちゃうことも正直あった。常時ワンオペの方は、この比じゃないんでしょうね。世のDVになんも言えねえんです。親は最高の反面教師になる覚悟でなっていくもんだ、なんて考えたり。どうなんだろう。

とにかくあわただしい日中。またそれとは対極的な夜の静けさ、これはよかった。暗闇に換気扇と寝息、たまに野良ネコの激しい抗争。深みある淵に無意識を預ける。無理の外側に溶けていく。遠のいて、寝る..zzZ

そんな平日を駆け抜けての週末。たまった洗濯物と皿という皿が詰まったシンク、散らかり放題の部屋で、無理の加減に勘づいていくわけです。まだ、この時点ではリカバーできる、などと思いながら。放心しながら。ろくに片付けもできず。そして、また新しい週を迎える。

ひと月経つぐらいかな、「あ、これ無理なんだ。」と認めはじめたのは。まわりの状況を知ってからです。そっか、在宅って、自室で作業に集中できたよね。まわりに左右されず、気を抜きたいタイミングで休みやすくて。快適に環境を整えたり、在宅慣れした人の余裕のある声も聞けたりして。

この苦労は在宅のせいではない、在宅 with kidsだ、と自覚するわけです。複合的に無理だ、と。自分も家族も無理だ、と。ここまでは地獄だったんだ、と。

ゴールデンウイークをやり過ごした5月、宣言は継続。この時点でダウナーな思考は全く無く、行政も医療機関も、会社もがんばってるさなか「今はみんなと自粛してるんだ」なんて、少し運命共同体っぽい意識になっていたような気がします。

心なしか罪悪感も減り、時折「仕方ない」と言い聞かせるようになってました。悪くないことにも気づけたかな。会社がやってくれるオンライン呑み会助成なんて最高で、タダ呑みが家でできる(もっとも子供が21時に寝てくれたら、だけど疲れなくなって23時就寝、まともな参加は一度だけだったなぁ)。まぁ、おいしいテイクアウトも味わえたし。

それよか、なんだかんだ、病床の家族や子供といる時間が増えた。話したり、たまにいがみ合ったり、励ましあったりもして。家族がいなかったらがんばれてなかったな。そうこう考えているうちに、地獄から少し離れていったのかもしれない。

いよいよ緊急事態宣言が解け、2ヶ月間お休みだった保育園も再開。子供も通いかけだった保育園に、もう泣かずに通えるようになった。病床にあった家族も回復できた。そして今ここで、ようやく振り返り、言葉を書けています。

言葉を書けるって、それだけで喜びだなぁ。

だけど、未だに、たくさんの解けない苦労があるんだ、と思います。自分の苦労はそのひとつに過ぎないし、その程度も知れてるけれど。

それでもあれは地獄だった。そして地獄ではなくなった。近づいたり離れたりして、この視野であったり比較対象によって、捉え方は変わった。そんな示唆を与えられた。地獄というそれが表現として大げさだとしても、個人は主観で生きている。

さて、もう6月だ。子供は3歳になった。この間で、単語の会話から、主語+名詞+動詞のような言葉でコミュニケーションが取れるようになった。誕生日プレゼントに、ウクレレとキッズデジカメを買ってあげた。大きくなってね。

まだまだ気は抜けないけれど、いつでもここから始めたらいい。また余裕がなくなったとしても、地獄は地獄のままじゃないからね。心づもりはできている。どんな苦しみにも、たぶん終わりが来るはずだもんね。そうじゃないかな?

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。