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仕組みはつくるけれど、ユーザーは仕組まない

仕組みとユーザー体験に関する課題意識をつらつらと書き出してみる。

ソフトウェアやシステムの設計をする際に「仕組み(しくみ)」という言葉を使ったり意識する。これは名詞(仕組み)であり、動詞(仕組む)にもなる。

誰が何をどう仕組もうと勝手だけど、ユーザーがそれを望むかどうかは分からない。「仕組まれる」ということは、いいことばかりでなく、不都合や不便益をはたらく可能性も大いにある。

仕組みを通じた体験を、ユーザーがどう感じるか。最終的には相手が決めること。としても、私たちの設計する仕組みは、誰かの体験に影響をおよぼす。

だから仕組みをつくる自分に問いかける。私(たち)は、私(たち)の勝手な「仕組み」を押しつけて、相手にとって「仕組まれた」状態にしていないだろうか。そして、それはどの程度のものだろうか。

元を辿れば “ソフトウェアやシステムの設計をする際に” と書き出した時点で、特にビジネスユースの仕組みほど、現実の多くは「つくること」が先にある。

さらに私たち設計者は、これに対して、“理解できて、使われること” を当たり前に考える。「分かりやすい」そして「使いやすい」ことを、いいことだと思ってつくる。

その「分かりやすさ」や「使いやすさ」は、いつ誰のどんな必要や先に期待に応えるものなのか。自分以外の、誰かが理解している。誰かが使っている。そのビジョンを、設計に取り組む私(たち)はスクリーンの先に期待できているのだろうか。

ペルソナ像やカスタマージャーニーマップのような手法ありきで、「こういう人はいるよね」「これが自然な流れだよね」といったよかれの意識はどこにつながっているのか。要件締結や意思決定を設計の目的にしていないか。

私たちの成果である仕組みは、その一時的な利用のみでなく、前後につづく相手の体験のなかで仕組まれる。

大きな成果が求められるとき。あらかじめ要件が決まっているとき。何かを成そう、つくろう、と盛り上がっているとき。熱意の裏側の、頭のどこかに冷静な観点をもって、自分の自負や慢心が邪魔してないか考える。世界は、相手は、思い込みによっていかようにでも捻じ曲がる。それも自分が気づかないまま。

仕組みはつくる。けれど、ユーザーは仕組まない。

仕組まれることのない、自由な相手へのまなざし、相手への思索を重ねて、仕組みの設計に向きあっていく必要があるんじゃないかな?
と自分に問いかける。

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