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丘の上から花瓶を投げる人、土手の上から火炎瓶を投げる人

しばらくnoteを書いていなかった。違う面で充足していたので、何も書けないわけではなかった。

アタマの中の書く人と考える人、感じる人がそれぞれお互いの期待を持って、うごめいている。期待が高まって「自分の恥部を晒してなるものか」と言わんような、かっこつけの抵抗感を持っていたのかもしれない。

期待がつながればいい。でも、例えば感じる人がいなくても、考える人がいなくても文章は書ける。愛読する文体練習のように、ひとつの出来事でも視点や表現方法が変われば、その意味はいかようにも見い出せる。

そんな詩人の境地にはたどり着けないが、僕は僕の雑コラムを執筆しよう。雑に雑を重ねた、救いようのない雑さだ。

この記事のタイトルは、昔に聞いた坂本真綾の曲の名前と、当時観ていた映画「害虫」のワンシーンだ。そしてこの記事は、それぞれの理解を求めるものではない。

言葉で並べると、なぜかとても似ていた。やっていることは同じで、高い場所から瓶を投げている。なのに、浮かんでくる心象はまるで違う。

丘の上に花瓶を持ち込むような、そんな人生は送っていない。身に着けていた美しいものを、その容れものごと思い切って投げ捨ててみたい。(僕にはそんな美しいもの持っていない。)

放り投げたなら、勢いよく転がり落ちる。瓶が割れてしまうかもしれない。花はいずれ転がる瓶を離れ、寄り集まった美しさも無くなり、水も得られずに朽ちてしまう。重しを解かれた人は、清々しい気持ちで丘を降っていくのか。丘の上にいてもやることないもんね。

火炎瓶なんてものは、映画かお笑い番組以外で観たことがない。住宅地の土手から投げたなら、民家が燃える。映画では女子中学生がホームレスと一緒に自宅を燃やしていた。

放り投げた結果を前に、為す術もなくなるんだろう。もしそんなことする心境なら、おそらくそれ以前から為す術はない。燃え盛るアチラに対して、冷たくて虚しくて恐ろしいコチラ。きっと、その場を去ろうにも去れないほどに動揺する。

花瓶と火炎瓶。なぜにこんな相容れない2つを並べたんだろう?一度寄った焦点を離してみる。

あるモノゴトを捉えようとしたとき、そのものを相対的に捉える “他” が必要になる。ある点と、別の点があれば線が見え、無数の点が集まれば面が見えてくる。

思考の発端は、人が何に依存して、どうやってその依存を断ち切るか。そんなところからだった。2つの点の瓶投げから、やがて昨年の放火事件や連続殺人の事件を思い出す。

犯人のそれまでや心中を読むに、なんとなく解釈はできるものの肯定できるものでない。まるで分断した別の国からやってきた犯人たち、今風に言うなら、違う世界線に生きる人たち。

ネグレクトのような分かりやすい背景もあれば、生真面目な教育を経た教職者の果てもあり。それはいずれも、独立、分断した強い点に思える。ナチズムもそうですよね。

つい最近、AO入試の拡充やポートフォリオの活用への批判をみた。今の受験形式から変わることで、経済格差や教育格差が学びの評価になるんじゃないか、という批判だった。

そんな個性を評価する教育は、点を増やしているように感じる。その点は、線や面になるんだろうか。この見えない分断はどう変わっていくんだろうか。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。