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形骸化した学校教育「生への倦怠」

まえがき

40000字を超える本記事だが、内容にそぐわない水増しは一切行っていない。

本記事をすべてのスポーツ指導者が読み、道徳的諸観念及び教育学の領域に思索を巡らせれば、それは荒廃しきった日本のスポーツ界・教育界の改革となり得る。

スポーツ指導者が教育者としての側面を持つ以上、「教育学」を学ぶことは、大変意義深いことである。特に、育成年代(ここでは便宜上育成年代という語彙を使用するが)を指導する場合は、「子どもとは何か」という事について、何か一つの真理を目指すことはないにしても、自分なりの「答え」を出すことは、きわめて実践的な思考の努力である。

また、「教育とは何か」という普遍的な問いが、指導者という立場を超えて、一人間としての全人的な活動について有意義であることは自明の理である。

現代の教育では「当たり前のこと」「普通のこと」とされている事象の中に、真に深刻な問題が潜在している。やや誇張した表現が許されるのなら、現在の子どもは三度の食事をとるように、空気を吸う如くに、破滅に向かって歩を進めていることが、もしかしたらあるかもしれない。

包括的な諸分野の理解と、それらを応用する統合的な実践力を身につけるべく、ぜひ本記事は教育学に触れたことのない方に読んでいただきたい。

指導者の葛藤

教育者の顔も持つ指導者は、「選手の成長」を望みながらも、目下の「勝利」に対して執着してしまうことがある。二律背反するこれらの欲求が、指導者の葛藤を生み出す。この問題は、指導者の立場ではなく「子ども」の立場から考えるべきである。それは、「子ども」の主観に寄り添うのではなく、あくまでその子どもの将来を見据えた包括的な視座に立って行われるべきである。しかし、将来なんて抽象概念について、真っ向から考えたところで確かなことは何一つない。すなわち、この矛盾した欲求についてそれをどう解決するかについては「正解がない」のである。

「正解がない」と聞いて、この問題について諦観を抱くにはまだ早い。指導者の抱える欲求と同じように、子どもはいかようにも変容する生き物である。対象が変容するという事は、弥縫策として出した何らかの答えすら、子どもの変遷によっては正解となり得るのだ。ただし、それもまた一時的なものであるだろうが。

これらのことから、教育について「普遍的な」答えを期待する姿勢は誤りであると強調したい。教育とは、社会的・文化的・道徳的・宗教的な要因によって、変化を繰り返す。

教育とは、アメーバのように決まりきった形を持たないものとして認識して、本記事を読み進めてほしい。まずは、「教育とは何か」という問いについて。次いで、教育の原初の姿「語源」について述べることとしよう。

教育とは

「教育とは何か」という問いに対しては、古来より多くの思想家や作家、教育者が様々に定義をしてきた。例えば、「子供の成長・発達を助けること」や「子供に文化を伝達すること」「子供を組織的に社会化すること」「経験を再構成すること」「価値的なものへの覚醒」などがあげられる。

どれも一見正しそうではあるが、普遍的な真理というには程遠いものである。「教育」という無形の抽象概念について、それを定義することは難しい。しかし、私たちは「教育」という言葉を頻繁に使うし、この記事の読者の多くは、「教育者」でもあるはずだ。明確な定義はないにしろ、私たちにとって身近な教育について、それを多角的に分析し、解釈することはある程度の価値を為すだろうと踏んで、ここでその語源について触れていく。

教育の語源

教育を定義すること、説明することの難しさは、その言葉自体が持つ多義性によるものだろう。また、教育という行為が多義性を持つことについて、人間という多義的な生命を主体とすることも関係しているはずだ。

日本大百科全書(ニッポニカ)宮寺晃夫氏によると、

教育の語源であるが、「教育」ということば(漢語)の使用例は、孔孟(孔子(こうし)と孟子(もうし))の時代にまでさかのぼることができる。今から2000年以上の昔に著された中国の古典『孟子』に、君子の楽しみの一つとして、「天下の英才を得て、これを教育する」ことがあげられているのが最初の出典である(『孟子』尽心・上)。

その釈義は、文字どおり「教え育てること」であるが、対象とされるのはあくまでも「天下の英才」であって、どこにでもいるような「子供」を含めていわれていたわけではない。要するに、才能のある子どもに対象を限定していたわけである。

また、「教」は「學」(ならう)と「支」(軽くたたいて注意をあたえる)との合字で、「上から施されたことを下からならう」というのが原義であり、「育」の方は、「月」(肉月)と「子」の転倒した姿からできていて、出産場面を象徴しているともいわれ、「養う」というのが原義である。

つまり、上から教えるのが支で、下からならうのが考であり、すでに「教」の一字から大人が教え、これを子どもがならうという二つの意味が含まれているという事である。

また、「育」という字は、自動詞として用いるとき、「子どもが生まれて大きくなる」という意味であり、他動詞として用いられるときは、「親が子どもを大きくすること」を意味する。

一方で、西欧に目を向けてみると、英語のeducationおよびフランス語のエドゥカシオン ducationということばの語源については、諸説があって解釈が定まってはいない。通説によれば、それはラテン語のエドゥカーレeducareに起源があることばだとされている。そしてeducareは、「外へ」という意味をもつ接頭語e-と、「引く」という意味をもつ動詞ducareとの合成語で、「(子供の内側にある)能力を外に引き出す」という意味をもつと解釈されてきた。

ドイツ語でも、同様にラテン語educareの趣旨を取り入れて、er-(外へ)とziehen(引く)との合成語として、エアチーウングErziehungということばが造られている。

つまりは、教育というのは外からの詰込みではなく、子どもの潜在的能力を内から引き出すことの意味だとする見解がある。しかし、歴史をたどると、このような見解は17、18世紀に成立したものであり、教育が「引き上げる」「引き出す」といった意味を含むようになったのは、近代に生まれた観念を近代より以前の語源に読み込んだものではないかという見方が多い。

教育の多面性

語源では、「教育」というものがある者(教育者、大人)によってある者(子ども)が教えられる(才能を引き出される)という意味にとどまっていたが、実際に私たちの身近な環境、すなわち「社会」においては、それよりも複雑で多様な教育の姿というのが見受けられる。

集団の不特定な人々や、文化財による教育も存在し、それぞれに意図的作用と無意図的作用も考えられる。社会や自然環境それ自体が、対象に向けて作用する場合もある。そしてさらには、「自己教育」と言える領域も存在している。このように、教育それ自体を説明することは多義性の側面及び、その対象、主体が人間という多義的なものである点から困難を極めていることがわかる。

「人間はその本質においてそも何であるか」という教育思想家ペスタロッチの問いは、教育を考える上で切り離せない命題でもある。このような疑問を生じさせるのは、私たちが思い描く人間像と、実際に出会う人間との差異によるものだろうが、この難題について考えることはこの記事の範疇を優に超えるだろうから、また別の機会に触れようと思う。

教育と社会~シュプランガーの教育観~

パウンゼンいわく、「教育とは、年長の世代から次の世代への文化財の伝達のことである」らしい。ここでは、教育とは、若い世代を一つの歴史的な生活圏、精神内容への「編入」を通して、社会的成熟に至らしめる過程であると考えたわけだ。

こうした考えの延長には、社会学者デュルケムの「教育とは、成人の世代によって、社会生活に未成熟な世代のうえに行われる作用である。教育の目的は、社会が子どもに対して要求する一定の身体的・知的・道徳的状態を、子どもの中に植え付け、発達させることである。」という考え方がある。

また、身体的・文化的に未成熟な子どもという対象に、道徳的諸観念を伝達し、「人間像」や「基準」を身に着けさせる、望ましい姿を「形成」させることが、「社会化」であるとも述べている。

ここでのキーワードは、「伝達」と「社会化」である。これらを重視する「教育」は、大人が主体となった教育観である。これは語源の章で述べた一般的な西洋の「引き上げる」「引き出す」という教育観とは対立したもので、子どもの「成長にゆだねる」教育観ではない。後者のような教育観は、自然主義・児童中心主義となる。

自然主義・児童中心主義の立場を代表するルソーは、代表作「エミール」の中で、「植物は栽培によって成長し、人間は教育によって人間になる」という言葉を残した。ルソーは、植物の中に自然性を見出し、植物のイメージを子どもに照らし合わせている。つまり、子どもの自己活動(上に述べた植物の自然性)を尊重し、大人の決めた論理や知識の強制的な伝達について、それを否定したのである。「すくすく育つ」とは上手くいったもので、まさにルソーの自然的な教育観を言い得た言葉でもある。

ルソーを中心とした自然主義・児童中心主義の主張は、アメリカの哲学者デューイによってコペルニクス的転換と呼ばれるほど画期的なものとなる。デューイは教育を「経験の意味を付加し、次の経験の進路を方向付ける能力を増大させる経験の再構成ないし再組織である」とした。つまりは、教育の目的は、問題解決的思考力を育むことにあり、人間の経験の再構成であるとしたのだ。ここに、発生主義、すなわち人間の自然性発達援助の教育観が頂点を極めたことになる。ただし、その代償としてデュルケムのいう様な教育における「伝達」や「形成」の側面がないがしろにされてしまったことも否めない。

ここまでに、さまざまな先人たちの教育観について触れてきたが、その時代時代におけるバックグラウンド、その国々における文化的背景、そして、社会や自然環境のようなものが教育には密接に関係してくる上に、教育の目的というのも一律に定められない、更には、どの教育観が正しいかについても、個人の価値観というのが関係し得ることが明確となった。

最後に、シュプランガーによる教育観を紹介して、この章を終えることにしよう。シュプランガーは人間の創造的諸能力は、単に内部から自然発生的に発展するのではなく、その発展のためには、既存の文化の媒介が必要であるとした。

「真理は単純に伝達されるべきでなく、真理自体への意志が強められ、自覚されるようになるべきである。これを一言で言えば、生活や文化の出来上がった意義を伝えることが重要ではなく、最高の意義への純粋にして清廉な探究が、みずから発展する魂において、畏敬にまで高まることが重要なのだ」。

この主張は、前述したような教育観とは一線を画す極めて観念的で、哲学的諸要素を含んだものである。シュプランガーの主張する教育観は、単純な知識の蓄積や、思考作用を訓練する事ではなく、もっと高尚で豊かな内容を持ったひとつの文化(客観的精神)と出会うことによって、子どもの精神が変容することを期待しているのである。

教育がどのようなものであるかについては、結局のところ、それぞれの人間観・世界観にまで考えが及ぶのである。シュプランガーのように「真理への情熱」を期待する教育観も、心理学者フロイトによれば「そも真理という外界の確実な認識というものは存在しない」と一蹴されている側面もある。

教育についても、フロイトの言う真理の解釈のように、われわれの欲求の所産にすぎず、我々自身の欲求自体も外的諸要因によって変化することから、理想的なこれらの真理、教育観自体が錯覚である可能性も否定することはできないのである。要するに、我々は我々がその時々に必要とするものを見出すにすぎず、我々が見たいと思うものを見るにすぎないのだ。

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