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サイドストーリーから見る「ミニマル/コンセプチュアル」展

八坂百恵

「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展では、造形やコンセプト等から語られる抽象的なメインテーマに対して、「労働」や「生活」といった、より身近で具体的なテーマが各所に浮かび上がる。さらに展示構成により、それらをひとつの流れとして読むことができる。本レビューでは、これをサイドストーリーと呼ぶ。

本展はあくまでもフィッシャー・ギャラリーで展示された作品や、フィッシャー夫妻と作家のやりとりを経て制作された作品にまつわる展覧会である。ここでミニマルとコンセプチュアルは並列に扱われ、作家の試みごとに9章に章立てされている。章立てによって2つの潮流を整理、総括するというわけでもなく、フィッシャー・ギャラリーでの展覧会の開催順でもないとすれば、この章立てはどのように編集されたのだろうか。鍵となるのはサイドストーリーである。

まず、労働へのまなざしがある作品群が、展覧会の導入部分に配置されている。初めに我々を迎える作品は、カール・アンドレ《雲と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌》(1996年)だ。 アンドレは AWC(芸術労働者連合)の立ち上げに携わったアクティヴィストでもあり、彼の作品と政治的経験は切り離せない。本作は重い鉛の立方体を並べて正方形を形成し、その周囲に同じ鉛の立方体を散りばめたものである。展示ごとに繰り返される鉛の解体と再構成は、生産と消費の循環の中で繰り返される肉体労働にも通じている(*1)。1章「工業材料と市販製品」には他にも、ダン・フレイヴィン《無題(タトリンのためのモニュメント)》(1967-70年)の展示のために小部屋が作られている。タトリンとは、ロシア構成主義の作家ウラジミール・タトリンのことで、キャプションでは建設されるに至らなかったタトリンのモニュメント《第三インターナショナル記念塔》に言及している。素直に受け取るならばこの作品は、レーニンによる労働運動のためのモニュメントに捧げる、祭壇のようにも見える。

2章「規則と連続性」にあるベルント&ヒラ・ベッヒャー《石炭庫》(1966-93年)(*2)で撮影された15の石炭庫は、炭鉱労働者たちがいた歴史の場所から動かないモニュメントとして屹立している。ベルント&ヒラ・ベッヒャーは、同じアングル、同じ暗さの曇り空、同じサイズでこれらの撮影を行った。移動の自由すら少なかったであろう炭鉱労働者にとって日常の風景であったモニュメントが、規則化された撮影によって形態を際立たせ、個別化されている。すると、そこにそれぞれの歴史があることが浮かび上がってくる。これらは数ある作品や展示資料のほんの一部であり、サイドストーリーの起点としてほとんど気づかれないように忍びこんでいる。

4章「数と時間」で紹介された河原温の展示作品は《One Million Years: Future》(1980-82年)で始まる。100万年間の日付がひたすら記入された分厚いバインダーを10巻すべて並べた後、Todayシリーズ3作品(*3)が展示されている。 《One Million Years: Future》によって、鑑賞者の目に日付の意味が無化された直後だ。その時代のその日を生きた人々にとって確かに意味を持っていたはずの日付が、天文学的な巨大さに押しのけられ、無化されてしまったようだった。しかしこれらの作品は制作地の公用語で日付が記され、その日その土地の新聞記事の切り抜きが添付されている。それに気付いたとき、記録によって日付は意味を取り戻す。本来は《Today》シリーズも、展示点数と方法によっては《One Million Years: Future》のように量の集積による質的変化を起こすことができる。しかし《Today》シリーズが3点のみで構成されている点とこの展示順から、《石炭庫》にもみられたような、個別の歴史が立ちのぼる出来事が起きている。

7章は「歩くこと」と題されており、生活の中の行為を取り込んだ作品が登場する。ここが本展の終着地へ向けて、サイドストーリーが目立ち始める分岐点だ。労働者へのまなざしを起点とし、その場にいたはずの人々が周縁化されることに抵抗するこれまでの流れは、「生活」をキーワードに収束していく。リチャード・ロング《歩行による線》(1967年)には、草むらに歪みのない一直線が現れている写真で、ここから立ち上がるのは、厳格なルールに従った行為の反復である。その後に展示されているスタンリー・ブラウン《a地点からb地点に向かう通行人》(1960年)(*4)では、歩行は厳格さから解放される。歩行者用道路に白い紙を置いておき、そうと知らずに上を歩いた通行人たちの靴跡が残った紙を、そのまま展示したものだ。ルールや行為の反復は見られず、たまたま通りがかった生活者たちの足跡が、彼らにとっても無意識のうちに記録され作品になり、彼らがそこに確かにいたことの証明となっている。

最終章「芸術と日常」の導入では、ブルース・ナウマン《オフィス・エディットⅠ》(2001年)(*5)の展示のために1部屋が用意されており、薄暗い部屋に映像作品が大きく映し出されている。赤外線カメラによる映像で、定点カメラが深夜のスタジオ室内の一角にある作業用デスクを捉えている。稀に鼠が走り虫が舞う、というキャプションがついているので一応期待してしばらく待つが、環境音が時おり変化するほかは、一切何も起こらない。ここで「生活」というキーワードが蘇る。例えば、日常の風景に目を凝らし耳をすます時間を「有意義でない」時間たらしめるのは、時間が資本化される世界に慣れきってしまった我々の感覚ではないか。ここで想起される「生活」とは、地に足をつけることで、時間や感性を収奪されないための方法である。続くギルバート&ジョージの紹介では、この2人のために1室まるまる用意されていた。ギルバート&ジョージは彼らの存在そのものや、歌う、散歩をする、お茶をする、特別な食事をするなど、彼らの生活そのものを「生きている彫刻」として提示した。会場には、彼らの宣言や活動についての資料が展示されている。ここで展覧会は締めくくられる。

以上のように、サイドストーリーを鍵として本展の流れを追うと、章立てがどのように編集されたのかを説明することができる。より大きなものに飲み込まれ、なかったことにされないための足掛かりとして「生活」を最後に提示するよう、サイドストーリーは構成された。そこにあるのは、美術の大きな潮流であるミニマル/コンセプチュアルを前に、鑑賞者が生活する身体をもって佇むことを前提とした演出である。

*1 アンドレが作品にどのように政治的経験を反映したかについては、沢山遼『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020年)、第9章「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」参照。
*2 北九州市立美術館所蔵。北九州といえば、筑豊炭田の激しい労働争議が行われた場所だ。それは、経済成長至上主義に植民地化され、辺境に置かれながらも尊厳を失わなかった炭鉱労働者たちの歴史である。
*3 《FEB. 23, 1966》(1966年)、《17 ENE. 69》(1969年)、《MAY 29, 1971》(1971年)
*4 《a地点からb地点に向かう通行人(10枚のシート、アムステルダム)》(1960年)
*5 《オフィス・エディットⅠ、11/11/00, 11/9/00, 11/16/00, 11/19/00, マッピング・スタジオ(ファット・チャンス ジョン・ケージ)》(2001年)

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ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術
2022年3月26日[土]-5月29日[日] 兵庫県立美術館
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2203/

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八坂百恵|やさか・ももえ 
京都在住。2018年に同志社大学文学部美学芸術学科卒業。浄土複合ライティングスクール2期生。Twitter:@yskmme

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