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「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展レビュー

視覚イメージのノスタルジア

原田遠

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イメージと言葉の探求、モチーフの散文的な配置(デペイズマン)、死や分断のモチーフ、作家主体の削除、架空の人格の創造、機械と生命の結合、日常品を用いたコラージュ。マーク・マンダースの創作手法はそれらの点でシュルレアリスムの文法に属している。そのような補助線を引いて、マーク・マンダースの作品を考えた時、作品の2つの傾向が注目される。

まず、日常品や新聞紙(*1)で作られたアッサンブラージュである。オランダやベルギーの現代美術に明るくない僕は、これらのマンダースの作品に、アメリカにおけるシュルレアリスムの継子、ジャスパー・ジョーンズを想起した。5という数字をさまざまな物品で形象するシリーズの1つ《5の箒》や、特製の新聞紙を使って遠近法的な画面を構成する《パースペクティブ・スタディ》では、数字や言語といった記号と視覚的なかたちが取り結ぶ約束事を、異化するような実践が試みられる。ジョーンズは《旗》や《的》のシリーズでシニフィアン(目に見える造形)とシニフィエ(意味内容)の純粋性に揺さぶりをかけているけれど、類似の問題意識がマンダースにもあると仮定できると思う。マンダースに顕著なイメージや言葉をめぐる言語論的な洞察(*2)は、マグリット、デュシャンやジョーンズなどに続く、イメージと言語をめぐる試みの延長において考えることもできるのではないか。

次に、彼の《乾いた土の頭部》、《2つの動かない頭部》、《マインド・スタディ》といった、彫刻作品におけるモチーフの問題である。1926年、ベルギーのシュルレアリスト、ルネ・マグリットは《天才の顔》という絵画においてデスマスクのような巨大な白い人体の頭部を描いている。目を閉じた頭部には2か所、立方体を押し付けて貫通させたような欠損が伴っている。1927年、《秘密の二重性》では、人体がパズルのピースのように2つに分断されてしまった。削り取られた表皮は、彫刻のように削がれた輪郭線を見せ、剝き出しになった内部は金属的な構造を露出している。マンダースとこれらの作品を比べる上で、直接的な引用を想定したいわけではない。何を好んで彼らはそのモチーフを選んだのか、ここでは、モチーフ選択の偏向性の問題として、考えたい。

マンダースのインタビューの中で、最も印象的だったのは、彼が好きな本の一冊に拷問器具がたくさん載っている本を取り出してきたことだ。彼は、それらを残虐であるけれど、実際に人間が作ったのは事実であり、私たちの頭脳について何かを見せているように思う、という(*3)。欠損した人体、拷問器具、架空の生物、動物の死骸。それら、いつの間にか世界から消えてしまうような造形だけでなく、モダニストの造形すら彼は脆いと形容する(*4)。彼の有名な、粘土のような感じを金属彫刻で再現する手法には、壊れやすい脆弱な存在を永遠に自分の箱庭に固定してみたい、という退廃的でノスタルジックな欲望を感じる。自身が「建物」と呼ぶ箱庭に、過去に作り出された事物を、世界や人間の思考を記述する造形記号として永遠に固定すること。デ・キリコに似た静寂さをマンダースに感じるのは、こうした視覚世界における歴史的なノスタルジアがマンダースのモチーフにあるからではないだろうか。僕は、彼が21世紀のシュルレアリストとして歴史に付け加える部分があるとしたら、そのような、物を詩的言語のように使って箱庭世界を創造する態度にあると思う。

*1 ここで使われるのは、辞書にある単語が抜き出されて、明確なセンテンスを形成するわけではなく配置された、(ただし各単語はマーク・マンダースの作品においてただ一度だけ用いられる)、マーク・マンダース特製のフェイクの新聞紙である。(『マーク・マンダースの不在』展カタログ、東京都現代美術館、2021年、129頁)
*2 限られた字数のため、ここで詳しく言及はできないが、マンダースの言語論的側面に関して詳しくは、『マーク・マンダースの不在』の展覧会カタログに収録されている、3つの論文を参照してほしい。
*3 「TOKYO ART BOOK FAIRにおける、マーク・マンダースへのインタビュー」https://www.youtube.com/watch?v=xFi0mKzijxg(2021年7月9日最終閲覧)
*4 前掲『マーク・マンダースの不在』展カタログ、137頁。

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原田遠|はらだ・とおき 1996年生まれ。東京大学人文社会系研究科美術史学修士課程在学中。東京都出身、東京都在住。「牯嶺街少年殺人事件」が好き。

マーク・マンダース—マーク・マンダースの不在
会期|2021年3月20日(土・祝)- 6月22日(火). 会場|東京都現代美術館


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