ヴィデオ彫刻に宿るエラーと歪み——「Viva Video! 久保田成子展」レビュー
八田 智大
久保田成子の作家性を特徴づけることになった「ヴィデオ彫刻」は《ヴィデオ・ポエム》に始まる。寝袋然とした赤い袋が、送風機によって微弱に振動しながら膨れ上がり、ジッパーの破れ目から覗く小さなブラウン管には、口を開閉させる久保田の姿が映る。膨れ上がりながらも半開きになった赤い袋は、どこか無防備な唇を思わせる。「口腔内」から無音のメッセージが映し出されるその背後には、詩が掲げられている。それは「V」で頭韻を踏みながら、ヴィデオと女性の勝利を謳い、そして最後にこう結ぶ。「Viva Video…」。
ヴィデオアートの創始者ナム・ジュン・パイクのパートナーとして知られる久保田成子は、パイク同様、ヴィデオアートの表現を更新したアーティストでもあった。が、その側面に光が当てられる機会は決して多くはなかった。そんな久保田の生涯を、キャリアの初期から晩年にいたる作品群とともに振り返るのが、国内初の大規模個展となる「Viva Video! 久保田成子展」だ。
ヴィデオ・アートの勃興と女性作家によるフェミニズム運動が共振していた1970年代。共同生活を始めていたパイクの影響もあり、自身もハンディカメラを手に取る。メアリー・ルシエら同世代の女性作家たちとの知己を得て、積極的に協働しながら、ヨーロッパをめぐる様子を収めたヴィデオ作品を発表。ニューヨークを中心に海外での評価を高めていった。ヴィデオという新たなメディアを言祝ぎ、可能性を見出していた久保田はしだいに、映像を用いた表現に造形的な要素を取り入れていく。
久保田の代名詞となるマルセル・デュシャンにオマージュを捧げた「デュシャンピアナ」シリーズは、ヴィデオ彫刻「創生期」に早くも発表された。そのうちの一つ《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》は、階段状の躯体とその中に埋め込まれた4つのモニターからなり、裸婦が階段を降りる断片的なカットがめまぐるしく切り替わる様子を映している。デュシャンによる同名の絵画作品を、モニターと立体物で再構成した「ヴィデオ彫刻」だが、注目したいのは、その「彫刻」の部分である。それは階段を模した立体物であると同時に、モニターを囲う過剰に装飾的な「フレーム」でもある。映像の内容に擬態するかのように階段状の形態を成し、各段からモニターが顔を覗かせる。その姿はさながら、映像が、その化身としての彫刻に「寄生」しているかのような印象すら与える。
同シリーズの延長といえる《メタ・マルセル:窓(三つのテープ)》を見てみよう。デュシャンの《Fresh Widow》を下敷きにしつつ、窓の奥には「黒革」ではなく、極彩色のシングルチャンネル映像を映している。この作品では、デュシャン作品のモチーフが原型をとどめつつ、映像をふちどる「フレーム」として流用されている。ここで興味深いのは、格子状の窓面によってモニターがわずかに遮蔽され、映像の全貌が拝みきれないようになっていることだ。
映像における既存の鑑賞態度への抵抗とも取れるこうした試みは、ヴィデオ彫刻「拡張期」に制作された《三つの山》や《河》において極点に達する。モニターは真上や真下に向けられ、鑑賞者は直接目を合わせることもままならない。代わりに目に飛び込んでくるのは鏡や水によって乱反射するだけの「光源」としての映像である。そこではもはや、映像は収められている内容以上に、そのマテリアルな側面に焦点が当てられている。
階段や窓枠など、ある目的に資するための形状を備えた物。それらが、目的という冠を外された時、備わっていた意味はたちまち蒸発し、「物」として純化されたオブジェとなる——かつてデュシャンによって意味が剥ぎ取られた「物」に、久保田は映像を縁取る「フレーム」という意味を与え直す。ただし、それゆえヴィデオ彫刻から「ヴィデオ」を摘出すると、残されたそれは単なる「物(body)」であるだけでなく、かえってヴィデオ彫刻の「骸(body)」としての印象が強調されるだろう。
他方、フレームによって縁取られた映像はどうか。多くの作品ではモニターが複数台並べ置かれ、さらに鏡や水に反射することで映像は歪められながらいたるところに氾濫している。際限なく分裂し増幅する映像は、自らが特権的な鑑賞対象となることを拒むかのように、彫刻作品を構成するマテリアルな要素——合板や鏡のような素材、あるいは水や光のような自然物や現象——の一つになり下がる。
こうした彫刻と映像からなるヴィデオ彫刻はちょうど、盟友メアリー・ルシエによって制作された《ポラロイド・イメージ・シリーズ:シゲコ》にも通じている。複製を繰り返すことによって増幅する「技術的なエラー」と「アンビエントな歪み」。それらを取り込みながらポートレートはしだいに面影を失い、やがてかろうじてシルエットだけを残した形骸へと変貌する。表象された映像と、さらにその複製物として作られた彫刻によって構成されるヴィデオ彫刻はまさに、こうした「エラー」と「歪み」を内包しているとはいえないだろうか。
イメージを再現し続ける不変の映像。形態を維持し続ける堅牢な彫像。二つの像を、機材の技術的な特性や周囲の環境、そして鑑賞者をも取り込みながら変形させる。久保田はそのキャリアを通じてヴィデオと彫刻の既存のありように抵抗し、それらを変形させ続けた。「ヴィデオ彫刻」には、そうした抑圧からの解放を謳った彼女の闘争の痕跡こそが深く彫り刻まれている。
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Viva Video! 久保田成子展
国立国際美術館(大阪)
2021年6月29日(火)– 2021年9月23日(木・祝)
https://www.nmao.go.jp/events/event/kubota_shigeko/
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八田 智大:1991年生まれ。神戸出身。兵庫在住。立命館大学産業社会学部現代社会学科卒。ゼミでは美学・芸術学を専攻。現在は企業に所属しライターとして働く。浄土複合ライティング・スクール一期生。
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