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クロスレビュー「ダンスダンスレボリューションズ」(京都芸術センター)2/2

矢印はダンスを踊らない
文:各務文歌

京都の街の中心を流れる鴨川は、両岸に整備された遊歩道や平地を持つ水辺として、人々の憩いの場になっている。景色を楽しみながら歩く人、楽器を演奏する若者たち、疾走する自転車、手を繋ぎ散歩するカップル……穏やかな川べりに人は集い、日々ささやかなドラマが繰り広げられている。

今作「ダンスダンスレボリューションズ」の主な舞台として登場する「いつもの場所」も川のほとりだ。かつて発泡スチロール製の大きな「矢印」を宇治川に浮かべ中之島まで下るという前代未聞のパフォーマンスを行ったアートコレクティブがあったが(THE PLAY《現代美術の流れ》1969年)、流れ続ける「川」は不可逆な時間そのもののメタファーとして用いられることも多い。今作で象徴的なモチーフとして扱われる「矢印」のイメージから、ふとそんなことを思った。

身振り・ダンス・言葉がそれぞれのベクトルをもって躍動し、交錯する今作をまとめて言語化するのは難しい。強いてひねり出すなら「いつもの場所(=川辺)」で出会う児玉北斗扮する「スワン」と、斉藤綾子扮する「ディディ」とのシンプルな恋物語をベースに、同じ舞台上で脇役・演出・テクニカル操作まで兼ねる「スペースノットブランク」(以下「スペノ」)の小野彩加が演じる「気印」と中澤陽が演じる「矢印」、彼らと協働し今作を作り上げた劇作家、松原俊太郎(役名記載が無いため彼自身として登場)の3名が加わり展開するパフォーマンス公演とでも言おうか。松原とスペノの協働はこれまでに4作あり、5作目となる今作では初めて、戯曲→演出というオーソドックスなクリエーションの序列を取り去り、戯曲の執筆と舞台の構築を同時に行うという手法が取られたという。

タイトルもパンチが効いている。ここから90年代に登場した有名なアーケードゲームを連想する人は多いだろう。軽快なダンスミュージックと共に画面上に流れる矢印の方向に合わせ、プレイヤーが身体を動かしその精度を競うゲームだが、これをイメージさせる以上、劇中に登場する「矢印」はこのオマージュでもある。つまり、「それ」に従って動く身体をテーマに据えているとまずは言っていいだろう。では今作における「矢印」とはどのようなものなのか? ひとまずは大きく二つの側面から見てみよう。

©︎ 守屋友樹 / 京都芸術センター


まず公開リハーサルの段階から際立って印象的だったのが、その舞台構造だ。今作では、通常であれば客席の後方に位置し舞台の進行をオペレーションする音響の操作卓と、物語の創造主としての作家が、舞台の上に載ってしまっている。前後を分けるように中央に据えられた長机に、観客と正対する形で着席している松原。その隣にマイクと操作卓(実質音響のみPCで操作するというシンプルなもの)が置かれ、スペノの二人は複数の脇役を演じつつ、自らPCを操作して音を入れたり、劇中では普通読まれないはずの状況説明の「ト書き」をセリフとして読み上げるなど「演出」としての役割をもここで見せてくる。その様子からは場自体の転移(ワープ)を伴うことで観る側と観られる側の関係性としての「矢印」が半ば反転し、現実と虚構が同じ俎上に載せられるという意図的な撹乱や捻れが見て取れ、芝居の「嘘っぽさ」——虚構性が前景化してくる。

次に、今作を構成する2大要素「言葉と身体」である。「嫁に行く」を「戦争に行くのと同じ」と言わしめ、「コスパタイパロンパってさ、(…)最近パは舐められすぎだよね」と嘆いたかと思うと「コミュニケーションゾンビ、コミュゾンですね」という言葉遊びで現代のコミュニケーションそれ自体の「借り物」的性質を揶揄するような鋭い問いかけが炸裂する。このように今作では、松原戯曲の魅力のひとつでもある言葉のセレクトとその組み合わせから生まれる豊かなイメージ喚起力が、出演者の身振り——ダンスをピリオドとして挟みつつリズム感を持ってグルーヴし、時にゆるく、時に鋭くひらめきながら舞台上を飛び交っていた。そこに現れる児玉らによる「身振り」としてのダンスは、日常動作から流れるように始まり、何かに抗うように伸び縮みしたり、身をかきむしったりしながらも伸びやかに弧を描き、躍動する美しさを保つ。

©︎ 守屋友樹 / 京都芸術センター


「ちょっと黙る」うちにも多くの感情が流れる様子を表したり、男女の惹かれる瞬間をユニゾンで見せたりと、そこには言葉が追いつけない速度を持った感情の発露、瞬間のコミュニケーションの密度が凝縮されている。松原のテキストは対照的に、膨大な量の言葉による種々の文脈が縦横無尽に伸び観客の脳内をスパークさせるが、その豊かさあればこそ、よりダンスのターンでの非言語の感覚速度は加速する。どちらも中心にあるのは「身体」である。身振りと言葉は身体において同様に出力されるが、両者が通り表出する回路は違う。特に後者は直接放たれる肉声のほか、今作ではマイクを通しモノローグが語られるパターンもあり、テキストを音声として生成する身体との「距離」が意識されていたように思う。またその発語はつとめて起伏が抑えられ、どちらかというと不自然なほど滑舌よく感情が伝わりにくい分、先のダンスとのコントラストがくっきりとしていた。この意味で、演技をめぐる身体と言葉の関係性は解体され、同じ力で押し合う、あるいは引き合う矢印のごとく均衡を保った状態で提示されていたように思う。

このように「矢印」に関するいくつかのイメージをたどってみたが、ここでもうひとつ重要な存在がある。中澤によって演じられる、「物語」を自称するその名も「矢印」そのものだ。

©︎ 守屋友樹 / 京都芸術センター

中澤はスワンの内なる矢印として前半から登場、後半ではスワンと正面衝突する「物語」として彼と饒舌に語り合ったりする。が、役名と共にクレジットされている4名の中で、中澤一人だけが最後までダンスを踊らない。本公演前に公開されたリハーサルでは、彼が終盤の長ゼリフを何度も繰り返し身体に覚え込ませている姿が印象的だったが、その内容は抽象的で出口の見えないトピックが続く混沌としたものだった。その勢いでスワンと関わり、延々と対話を繰り広げる「物語」は、ラストシーンでディディの友人として彼女と共にやってきた気印を見て、「君が、どうして中にいる?」「帰ってきてくれ」と呼びかける。一方の気印は、その前のシーンでディディにこうも言う。「矢印は奪われちゃだめ、矢印はあなたの中にいる友達にちゃんと向けてなきゃだめ」。

種々の関係性の方向が覆り、あるいは対峙し、それまで繋がっていた透明な糸がブツブツと断ち切られる——そんな世界で呆然と彷徨う「矢印」=中澤扮する「物語」は、大量生産の末、いつの間にか使い古された形式を型取るだけの器と成り果てた物語のゾンビでもあるのではないか。自身を駆動する矢印を奪われ、借り物の魂を取り替えながら出口を探すループから抜け出せないのは、ほかならぬ彼なのかもしれない。そんな彼を横目に、作品のラストでスワンはパターン化した思考のループから抜け出せないというディディに向かってこう呼びかける。「『いつもの場所』にループを置いて、見てみよう。まだ帰ってきてない人たちと一緒に。わたしらの身の振り方も一緒に」。

「身の振り方」とは、身振り=ダンスを表す一方で、これまで行われてきた演技としての「身振り」でもある。この後、物語の始まりで小野が語ったセリフを斉藤がそのまま再現し、同じく冒頭で児玉と斉藤が歩いた軌跡を小野と中澤が歩いてゆくところで終幕となる。物語は終わったように見えて、再度演者の役割を入れ替え始まる予感を醸すのだが、ここでは入れ替わった演者が「物語」そのものであるという点で、位相自体がぐるりと置換している。はたして同じ演技が再びなされるのだろうか。それとも。

演劇を演劇たらしめる種々の「矢印」が、その前提から相対化され問い直されるメタ的な思考が見え隠れする今作。それはコミュニケーションのあり方がパラダイムシフトを迎えている今だからこそ提示される視点であろうし、そこで「身体を通し演じられる言葉」としての物語が魂を失い、彷徨うゾンビのような状態で現れるのも必然かもしれない。流れ続ける川ベりの「いつもの場所」に置かれた物語は、ここからどう蘇生してゆくのだろう。その問いの矢印は私たち自身にも向けられている。

各務文歌|かかむ・ふみか
岐阜県出身。南山大学文学部人類学科卒業。あいちトリエンナーレ2010サポーターズクラブでの活動をきっかけに、美術作品のレビューを書き始める。浄土複合ライティング・スクール一期生。


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