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網膜的快楽の過剰 ——「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island―あなたの眼は私の島―」展レビュー

yominokuni

アト・ド・フリース『イメージ・シンボル辞典』によれば、「島」には幾つかの興味深い意味があるという。「失われた楽園」、「未知のものへの挑戦」「孤立や孤独」、「周囲の卑俗さからの避難」…。それでは「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island―あなたの眼は私の島―」展はいかなる意味を表す場と言えるだろう。

ビデオ映像を中心に展示を構成するリストの島々は、分厚い黒の垂れ幕とマットに覆われて暗い。音と光を吸う暗闇に覆われた空間は、一体どこまで広がっているのか。眼が慣れるまではほとんど分からないが、まるで母親の胎内で揺られているように不思議と恐怖や不安感はなく、一種の心地よさや安心感が身体に満ちてくる。自分と世界との境界が曖昧になるような暗闇。その中には、鮮やかな彩光を帯びた映像が舞っている。レッドにオレンジ、マゼンタ、イエロー、ライトグリーン、マリンブルー、ヴァイオレット。闇の中に舞う色彩。

愛撫する円卓

けれど時おり、我々の眼はその色彩の強烈さでもって灼かれることにもなる。それは立体インスタレーションの群島を照らす映像で顕著に感覚されるだろう。たとえば《愛撫する円卓》などは、跳ね返すような白のテーブルクロスやガラス食器に強彩度の色彩がうねるように投射されており、その反射光に刺された我々の眼は、テーブルの上の食器やナプキンが果たして投影された映像なのかオブジェなのかよく分からなくなるほどに錯乱する。単に心地よいだけでなく、眼に突き刺さり、像を結ぼうとする網膜ごと溶かすような彩光をもまた、我々はこの島で享楽するのだ。

暗闇を貫き、眼を灼く彩光の間で我々は思う。強い光は目に痛い、と。瞳の虹彩をきりきりと破壊させられながらそれを眺めるときに我々が感じているのは、光という暴力による網膜の苦痛か、あるいは快楽か。おそらく両者だろう。苦痛であり、快楽であるもの。誤解をおそれずに言えば、それは「美」と言えるのかもしれない。大きな羊と書いて「美」という。「美」にはそのために供される犠牲や破壊がつきものである。

とりわけ《永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に》は破壊による「美」を最大限に引き出した作品と言えるだろう。薄青色のワンピースに真っ赤なハイヒール、けばけばしい色合の装いに身を包んだ女性が、長い植物状の棒で路上に駐車された車の窓ガラスを叩き割りながら楽しげに歩く様子を撮影した映像だ。これにはたとえば、理不尽にも他人の商材のガラス板を叩き割るその瞬間にこそ無限の悦楽を見出すボードレールの詩を想起せずにいられない。美しきかな人生! ワンピースの彼女の快哉が聞こえてきそうですらある。リストの作品には色彩が溢れているけれど、その映像の中で叩き割られた窓ガラスは「楽園」や「美」の色を強く帯びるだろう。「人生を美しく見せるガラス」が出来上がる瞬間、その無限の悦楽としてのガラス破片が我々の眼を突き刺す。痛い、だが気持ちいい。ガラスを叩き割る瞬間の胸がすくような快楽と、叩き割られたガラス破片としての映像を目で受ける苦痛としての快楽を、我々は同時に享受する。

彼女の作り上げた楽園としての島で眼を灼かれ、突き刺されていると、たとえば「網膜的芸術」への無関心を武装するコンセプチュアル・アートも、結局のところ「美」には敵わないのではないかとさえ思えてきてしまう。網膜的な苦痛≒快楽としての美は、無関心という計算づくめの態度ではともかく、暴力的であればそれ故にいっそうその威力を増すだろう。

眼を灼き、貫く彩光に身をまかせること。それは、視覚や触覚に関するフェティシスト的な鑑賞を軽視する頭でっかちなコンセプチュアル・アートから避難した孤島での秘儀である。リストの島は、美術において失われた、あるいは未知の「美」があり得るかを試す孤島なのだ。それはおそらく、破壊とともに最大となる。

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ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-
京都国立近代美術館
2021年4月6日-6月20日

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yominokuni
鹿児島県出身。京都造形芸術大学にて美術批評を専攻後、立命館大学大学院へ進学。現在は休学し、京都市内にてライターとして活動中。

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