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声なき声に身体を投じて——ホー・ツーニェン 「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」展レビュー

各務文歌

声が響く。かつての子供らの学び舎に。声は響く。「彼ら」の思念を召喚せんとふるまいながら。風の吹き抜ける渡り廊下、青空を抱く映写幕、紅葉綾なす庭をのぞみ、覗き込めば果てなき奈落へとつながる、煉獄の回廊へと。

シンガポール出身のアーティスト、ホー・ツーニェンの個展「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」。今春、作家が山口情報芸術センター[YCAM]とのコラボレーションで制作・発表した本作は、日中戦争を経て太平洋戦争へと進みゆく1930〜40年代の日本を舞台に、東洋思想からの西洋の超克を志向し「大東亜共栄圏」の思想的背景に深く関わったとされる哲学者グループ、「京都学派」の人々を取り上げる映像/VRインスタレーションだ。今回KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭の1プログラムとして、彼らと関わりの深い京都の地で、同時代の1931年に現在の姿に改築された元明倫小学校、現京都芸術センターを舞台に再インストールされた。

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展示は4部屋のCGアニメーションによる映像作品と建物内回廊の資料展示からなる。4部屋のうち3部屋は2面スクリーンによる映像作品《監獄》《空》《左阿彌の茶室》、残り1部屋はこれら3部屋の映像と新出の一部屋を統合した空間に入り込むVR(仮想現実)作品《座禅室》で、鑑賞のオーソドックスな流れとしてはまず《座禅室》以外の部屋を巡って主舞台となるVR内の複雑なシーン構造に関する情報をインプットし、関連する一次資料を把握した上で体験に臨むという形が自然だろう。

ここで気になるのは、先の3部屋で映像と共に語られる内容がすべて「この作品に声を貸してくださることに感謝します」という謝辞から始まることだ。中身はそれぞれ、京都学派の中心人物である西田幾多郎が1938年に開いた講座「日本文化の問題」、西田の弟子で後継とも目された田辺元が学徒動員の拡大を背景に京都帝国大学で行った講座「死生」、京都学派左派とされ、思想犯として投獄・獄死させられた三木清「支那事変の世界史的意義」と戸坂潤「平和論の考察」、そして真珠湾攻撃の直前期に京都東山の料亭左阿彌において行われた西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高ら「京都学派四天王」による座談会「世界史的立場と日本」を取り上げ背景を解説するもので、なぜか極めてトーンを絞った「ささやき声」で語られる。その中で冒頭の謝辞はこれらのテキストを「朗読する≒演じる」俳優に対してのものであることが示唆される。つまりここで表されているのは、テキストを朗読する主舞台を前提とした演じ手への情報提供という「設定」であり、同時に作品が提示する世界観への導入の役割も果たしている。

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のちのVR作品内で鑑賞者はヘッドセットを付け、座って手を動かすと「左阿彌の茶室」内で学者らの議論を聞き、立ち上がると上層に位置する「空」の只中に、横たわれば茶室の真下の「監獄」内で囚人の目線へと移動し彼らの声を頭に響かせる。動かずにいると強制的に移動させられる「座禅室」以外はすべてそれまでの3部屋で解説を見聞きした映像内の一視点に立つことになるため、既視感を覚えつつ当事者の目線で前出のテキスト朗読=学者たちの声を聞くという没入感を味わう。

中でも印象深いのが、作品の核として位置付けられているであろう「左阿彌の茶室」での座談会シーンだ。ここで鑑賞者は学者たちではなく同席して彼らの言葉を記録した速記者「大家益造」の視点で、彼に憑依する形で状況を観察することになるのだが、そこでは西洋主体で語られる世界史を東洋の側から組み直す、その使命を日本が担っているということや、その過程で起こった現実の意義を創造するのが自分たちの役目だ、など熱く議論する光景が繰り広げられ、聞けば聞くほど理想の高みへ上り詰めるばかりでついぞ地に足が付いていないようにも思えてくる。先の映像スペースでは彼らや西田が戦争を回避するため秘密裏に動いていたことが説明され、いわゆる「戦争協力者」という単眼的な評価を否定しているが、それゆえにこの場で意気揚々と議論する彼らの矛盾した姿には何か滑稽さすら感じられた。

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そんな風に眼前の光景を見ているうち、奇妙なことが起こる。鑑賞者が右手を動かし速記のふるまいを続けるうちは4人が淀みなく喋っているが、手を止めるとすかさず、大家の内なる心の声が響いてくるのだ。内容は彼がこの数年前に中国戦線で目の当たりにした日本軍による残虐行為を詠んだ短歌で、戦後25年以上の沈黙ののち編まれた句集『アジアの砂』からの引用だ。しかしこの「声」について、VRの前提となる映像作品では言及こそされるも朗読に対しての「謝辞」は無かった。つまりこの舞台上で聞こえてくる「声」としては無いはずのもの、設定上は「存在しない声」だということだ。そのようなものが、なぜここで急に出現してくるのか? 大家が話し始めると、やがて目の前で語り合っていた4人全員がこちらを向いてフリーズし、プログラム崩壊とでもいった体で顔が割れ(まるで《宝誌和尚立像》の顔面のようだ)、ついには視線すら拒否するかのようにのっぺらぼうになることを繰り返すという奇怪な状態に陥ってしまう。このことからも大家の「声」は、物語上の予期せぬ「ノイズ」として挿入されていると考えてよいだろう。本来なら発語を許されないはずの透明な存在。いるのにいない、その声が聞こえてくる。しかも自分の内側から。

ここでもうひとつの「声」を持たない登場人物として、「空」の層で体験する兵器としての身体を挙げておきたい。VR内で立ち上がって空に移動すると、右手の鉛筆がそれごと銃に変化し、量産型ザクのようなロボの群れの一機として「死生」の声を聞きながら解体・霧散するという「特攻」を思わせる体験をすることになるのだが、ここにも本来は多くの声があっただろう——と、大家の立場に立ち、その演出上は「予期せぬ」発語を体験して思い至る。四角い部屋の内側で話し続ける哲学者たちと大家の内心=外部としての戦場との間にある絶対的な乖離が、これらの声を想像することで強く押し出されてくる。

大家の短歌は戦後になって記されたもので、彼が座談会の時点で実際に何を思ったかはあくまで不明だ。しかし戦中このような声をあげることは命の危険を伴うものだった。その圧力はVR内で茶室の下部に位置する「監獄」(虫が這い回り排泄物が放置されるような劣悪な環境で死にゆく人間の目線)を体験すればより理解できよう。そのような「状況」が大家のみならず京都学派の面々を取り巻く社会全体を覆っていたことも、またフレーム外の事実として忘れてはならないだろう。予期せぬ外からの訪問者、私たちにしか感じ取れない彼らの「声」のトーンは、哲学者たちの明瞭かつ朗々とした「声」とは違い、すべてが何かに怯えるかのように後ろ暗い「ささやき声」ではなかったか。あの時代、求められた「言葉」と、奪われた「言葉」があった。会場のいたるところをさまよい歩き、ついに私たちに届いたその声は、いまもなお問うている。「この状況下で、あなたはいまどんな声をあげるのか」と。

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KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭
ホー・ツーニェン 「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」
京都芸術センター
2021年10月1日(金)〜10月24日(日)

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各務文歌|かかみ・ふみか
アートウォッチャー/会社員。岐阜県出身。南山大学文学部人類学科卒。私立美術館勤務を経て京都橘大学大学院文化政策学研究課修士課程修了。あいちトリエンナーレをきっかけに美術作品のレビューを書き始める。浄土複合ライティング・スクール一期生。

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