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22年前、大腸がんが見つかって、私の人生は変わった(1)

合同会社JC1の碓井郁人(うすいいくと)と申します。人生にはいくつかの分岐点はあるものですが、僕にとって大きな岐路は22年前でした。僕にとってというよりも、僕のカラダにとってです。

8年間の海外駐在を終えて本社に戻ったとき、人間ドックが見つけてくれたんです、「大腸がん」を。精密検査の結果面談のとき、主治医は、「よくこのタイミングで帰ってきたね」と前置きして、僕のショックを慮ったのか遠回しに話すので、僕が結論を急がせると「つまり、がんです」と言ったのです。その瞬間は、目の前も、頭も真っ白になったことを覚えています。

即入院しました。点滴をしながら母親から聞かされたのですが、父が「お前を先に死なせるわけにはいかない」と。今までなんとなく普通に生きてきた自分に、もっとちゃんとカラダを大切にしなければ、と思い始めたのはこのときでした。

主治医は、こう言いました。「アメリカ生活で肉をいっぱい食べていませんでしたか?肉を減らしたほうがいいですね。」あとで知ったんですが、当時、医者が食事についてアドバイスするケースはほとんどないらしいのです。今から考えるとそのアドバイスをいただけたことは幸運でした。

大腸がんは、切除後も腸壁に近いリンパにがん細胞が届いてしまっているケースも多いらしく、そうなるとカラダに回り始めていて、将来、どこかの部位でがんが再燃することを注意しなければならないそうです。これからの人生、がんに悩まされながら送るわけにはいかないと、健康管理を最優先にして、食事を変えて再出発することにしました。

肉を減らすと言われても、それまでアメリカのジャンクフード漬けだった僕には苦行でしかありません!しかし、そこは心を鬼にして、肉を減らすのではなく肉を断つ決断をしたのです。そうしなければ誘惑に負けて減らせないと予感したからです。

少しアメリカかぶれも手伝って、ベジタリアンで押し通すことに違和感はありませんでした。そのときから植物性食材メインの食生活にしました。それが功を奏したのかどうかはわかりませんが、がんの再燃はなく、毎年チェックする全ての腫瘍マーカーも異常なし。舵を切った方向は正しいと自分自身で納得していました。

5年後、検査結果は「異常なし」。再び、海外勤務に。

がんの術後検診は5年が一区切り。5年目の2007年11月、検査結果は異常なし。どうだ、と目の前が真っ白になった5年前とは全く違う、打ち勝った気分でいました。そのことを会社に報告、するとすぐに次の海外駐在の辞令、翌朝の人事発令を受けて、午後、国際線で現地へ。今後の体調管理は自分でできる、という自信とともに再び海外生活が始まりました。

しかし、いくつか不安がありました。食材の質はどうなのか、例えば農薬はどうなのか。食べる量はどうなのか、ビタミンやミネラルバランスは、調理方法は間違っていないのか、そんな思いを持ちながらも、海外拠点を飛び回る多忙な生活が続き、それらの疑問を解決することなく3年間の海外業務が続きました。

帰任後、妻が気遣ってくれ、米、野菜は一般栽培から自然栽培に。栄養バランスを考慮し、動物性として天然魚や平飼い卵を適度に摂れる生活に切り替えてくれました。この頃から、食に関する正しい知識や、食の現状や課題を学び始めるようになりました。なにしろ、巷に流れる情報が自分の知識の大半でしたから。

いろいろ調べていくと、面白そうなものを見つけました。ローフードです。「ロー」とは「なま」を意味し、野菜や果物やナッツ類を生のまま調理して美味しく食べさせてくれる料理のことです。運よく、家から徒歩圏内にこのローフードを専門にしているレストランがありました。食べに行ってみると実に美味しい!これは自分の生活に取り入れる価値はあると直感しました。

それから、ローフードのレシピ本に習いながら、スイーツ作りを始めたのですが、これがうまくいって、味覚が変わったのか市販のスイーツはその頃から食べられなくなりました。味に違和感があるからです。手前味噌ですが、我が家のスイーツのほうが格段に美味しいのです。

何度か、そのレストランに通うことになりました。店においてある雑誌の中に、ローフードの資格取得のテキストが並んでいて、そんな資格があることを初めて知りました。何しろ会社勤めが30年以上続く中、他の世界を見る余裕もなく働き続けてきたので、新鮮でした。

その翌年には、ローフードマイスター・エキスパートという資格を取得していました。僕が61歳の時でした。