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「よく分からない」ことと向き合う時間の尊さと、"保留"の大切さ

皆さんおはこんばんにちは!
(4181文字/約6分で読めると思います。)

最近駅前で演説する人、選挙ポスターに公約を掲げる人、テレビで世論に向けた発言をする人など、あれなんか政権変わったりするの?と外野のような気持ちでいましたが、東京都議会議員選挙が今週末に控えていることを知ってもうちょっと選挙権を持っている一国民としての自覚を持たないとなぁと思った今日この頃です。

ポスターの公約だったり、主張を見ていると、コロナ対策!まずは五輪中止!などキャッチーな言葉を目にしますが、まぁそれは各々の主張として置いといて、なんだか全部"はい"か"いいえ"みたいな主張ばっかりだなぁと感じました。

今ホットな話題である五輪であれば、やるのか、やらないのか。みたいな二元論に持っていきがちだなぁと感じまして、「コロナが怖いから中止だ!」という人の気持ちも分かりますし、個人的には、中止になったとしてもしょうがないかと思いつつ、やるならなるでそれはそれで盛り上がってくれたら嬉しいなくらいです。

中途半端な、、結局どっちなんだ!と思われるかもしれないですが、政府、IOC、選手、運営などさまざまな立場の人達がいる中でそんな簡単に意見を決められないですし、そんな簡単に決められるならとっくのとうに決まってるはずで、それをギリギリのところで調整してる方々には頭が上がらないのですが、とにかくYesかNoかみたいになりがちな世論だなぁと感じる日々です。

茶の間に分かりやすく理解してもらうために、二元論で論じるというメディア側の都合は分かりますが、BBCの報道などを見てみると、中止か否かという二元論だけで論じる必要もなさそうに思えました。

「なぜ五輪は決行されるのか?」というテーマで様々な視点、立場の人の意見を下記のような感じで事実とデータベースで論じていて、とても分かりやすかったです。

・IOCにとっての五輪開催は重要な収益手段(340万ドル/日のお金をスポーツ組織やアスリートへの支援に投じている)であり、開催都市契約的には、中止になれば日本側が数億ドルの損害賠償を肩代わりすることになっている。
・既に巨額の金額をつぎ込んでいる中での中止は経済損失も見込まれる中で、今年後半の総選挙を向けて、復興の象徴として開催したい「国の威信」を掛けたイベント(2022年の冬季五輪は北京)でもある。


とはいえ、これはイギリスの公共放送局が責任を持って報道している内容であり、個人レベルの話題や意見、ポジションというものはもっと簡単に二元論になりやすいのかもしれません。

例えば、何かを比較する際にも、比較した結果で選ばれた方が良くて、そうでないものは悪いという考え方になりやすそうですし、キンコン西野さんはVoicyで「比較はあくまで対象の差異を明確にするだけであって、主観を折り込んで良し悪しを決めるツールではない」と触れていました。

そんな両極端に寄りやすい世論や、考え方が多い中で、自分の考えというものをどう保っていけばいいのでしょうか。。?

そもそも否定の方が強くなりがち

全国民総発信時代になり、誰でも気軽に自分の意見を発信できるようになりましたが、そのせいか何でもかんでも自分の意見を持ってないといけないみたいな風潮もあるような気がします。

もちろん意見を表明すること自体はとても大切だとは思うんですが、表明するかどうかは自分が決めればいいばいいことで、他人がとやかく言うことではないと思います。

ただ、様々な情報チャネルがある中で、毎日のようにトピックは更新され、情報の流れも早いため、意見を表面しようにも、前提知識がなかったり、なんとなく知らないことが増えて、「〜〜は危険だ」「〜〜は嫌い」みたいな論がすぐに広がりやすいのかなとは思います。

人は知らないものは脊髄反射的に嫌う性質があるとは思うのですが、(ビットコイン?詐欺なんじゃね的な風潮が波に乗りやすいのとか)かつ、否定するポジションを取っておけばなんとなく意見あるやつ風になりますし、サポーターも付くのでその分の自己顕示欲も満たされて、とりあえず否定的なスタンス取っておこうとかになりがちなのかもしれません。

どんな物事や事象にだって粗がありますし、得をする人がいれば損をする人もいるので、どの視点に立つかが大事だったりはするんですが、とかく否定しておけば、まぁ間違ってはなさそうというポジションを取れるので、手っ取り早いことは手っ取り早いですし、意見を持っている風に振る舞うこともできます。

ただ、その分意見を変えにくいという代償はあり、一度否定してしまってその意見がサポートされるのはいいものの、翻って冷静に考えてみると、あれ実は面白そうじゃない。と思っても今度は意見をコロコロ変えるやつ認識になってしまうので簡単には変えられません。

このように、短期的に見れば否定すること自体はお得そうに見えますが、長い目で見た時に後戻りできない諸刃の剣でもあるので、人間は反射的に否定する生き物という前提で物事を見たり、判断することが大事だと思います。

とはいえ、そんな本能に抗うのもそれはそれで労力が要りそうなので、yes/no以外の選択肢である「保留」という選択を持つことが大事なのかなと最近では考えたりします。

「保留」を持つ勇気

保留と聞くとなんだか中途半端な印象がありますが、ほぼ日刊イトイ新聞の「偏見も勇気、保留も勇気」というコンテンツがあり、その中でこんなことを言っていました。

自分の考えに保留をつける「勇気」。これが必要です。
「自分はいま、こう思う」でも、保留する。考えを保留する。
「もしかしたら、間違ってるかもしれない。
また新しい情報が入ってきたら、いつだって自分の思考のルーツをたどって、考えを変えるんだよ」
と自分に言ってみる。

これを読む前は、保留にすることって自分の意見を先送りするネガティブなことかと思っていましたが、そうすることにも勇気がいる時代だよなぁとハッとした記憶があります。

これほど情報の粒度もまちまちで、時代の流れが早い中で自分の意見を確固たるものにする方が難しく、自分がまだよく分からないトピックにぶつかった時、「ん、、なんかよく分からないから怖いな」と引き下がるのではなく、「今はまだよく分からないな!保留で!」という意識で接することが大切だと思います。

保留といえど、「ちょっとよく分かってません」と公言することでもあるので、それはそれで勇気がいる行為だと思います。よく分からない自分をまっすぐ受け止めて、まぁ分からないこともあるでしょ、そのうち分かる日がきたら嬉しいなぁくらいの余裕を持つことが丁度いいのかもしれません。

「ちょっとよく分からない」を楽しむ

月に数回いく美術館や個展も、最初の方は自分が好きな人の作品を中心に見に行くことが多かったのですが、最近では「お なんだこれ?見たことないな」といったこれまで触れたことのない作品や表現にも触れることが増えてきて、その都度新しい発見や自分の中の未知の感覚に出会えることがあります。(自分用の記録アカウントを見ても、バレエティに富んできた気がします笑)

6月に行った「イサム・ノグチ 発見の道」では、初めての彫刻鑑賞体験で、自分にとってどう感じるかは未知だったものの、これまでにない正面がない、視点ごとに景色が変わるという彫刻ならではの魅力に気付けた瞬間でもありました。

このように、自分の想像を超える感覚に出会ったり、あの時は分からなかったけど、今見てみるとこれって凄い表現だな。。と巡り巡って過去の感覚が蘇えって、更新されることもあるので、この体験はとても面白く、都度都度「これは好き、これは嫌い」とその時点で感覚を閉じるのではなく、「お、、なんか不思議だな なんだこれ?」といったふわふわした感覚を最近は面白がれるようになった気がします。

世の中まとめサイトや、専門家レベルの人が動画やテキストなど様々な媒体で解説してくれることが多くなり、正解の解釈が増えているような気がしていて、こう調べれば分かるみたいな方法論が確立されていることが多い気がします。

一方で、自分にとっての圧倒される!魅了される!というような非言語的な感覚の解説はどこにも載っていないので、そんな「なんだかよくわからないやつ」とじっくり向き合っていく必要があります。

最初は「あぁ。。 これは自分にはまだ早いのかな」と落ち込む時もありましたが、今では「お、未知の領域にまた出会えた!」と少しワクワクする感覚もあります。

「ググれ カス。」という言葉にもあるように、大抵のことは調べれば分かるが故に、「分からない、知らない」という感覚が少なくなってきた時代だからこそ、逆に非言語的で分からない感覚と向き合う時間はとても尊いものだと思います。そういった時間を大切にすることこそが、二元論に流されないようにする、保留にする勇気を持つための訓練になるのかもしれません。

大事なのはそういう前提で動くこと

二元論って楽ではあるけど、否定に流されやすいから、もっと保留にしたり、分からない状態を楽しめる余裕を持てるといいよね的な自分に寄った話になってしまいましたが、冒頭でも述べたように、知らないことを否定しちゃうのは脊髄反射なので、もうそういうものとして、多様な感覚、意見と向き合うことが大切なのかなぁと書いてて思いました。

人は30歳半ばで新しい音楽を探さなくなるというデータも出ているらしく、新たな音楽を発見する年齢は24歳でピークを迎えるらしいです。これは音楽だけに限った話ではなさそうですし、自分にとって好きなものの線引きを早いうちに済ませれば済ませるほど、違う線を引くのが億劫になってどんどん視野が狭まってしまうかもしれません。

自分の中の感覚を常にフレッシュな状態に保つには、いかにして自分の中で「まだよくわかってない感覚」を大事にするかということだと思いますし、検索ですぐに正解が分かる時代に、いかに未知の領域と出会うための機会を自発的に作っていくかが大切なのではと思います。

仕事上プログラムを扱うので、基本的には答えが明確(正しく書いてれば動くし、書いてなければ動かない)な世界ということで、それはそれで向き合いつつ、それ以外の時間では非言語的で曖昧な感覚と向き合うこと時間も意識的に取って、大切にしようと思いました!ではまた!



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