日本人の『超主観空間』って?
皆さんおはこんばんにちは!
(約3560文字/5分くらいで読めると思います)
最近日本の浮世絵や、西洋の印象派絵画などを観にいったりしてるんですが、鑑賞中にふと疑問に感じたことが、「なんで同時代の人が同じ対象を描いたときに、表現方法が変わってくるんだろう?」という点です。
例えば、こちらは18世紀に制作された尾形光琳さんの白楽天図屏風
こちらは1886年に描かれたクロード・モネさんの『雨のべリール』
どちらも同じ”水”が表現されてますが、光琳さんは水の動きそのものをダイナミックに表現するような描き方で、使われている色は水とは程遠いですね。一方のモネさんは、波しぶきで動く水の反射を鮮やかな色使いで表現しています(それっぽい解説)
このように、同じ対象でも描き方はかなり変わってくることがあるよねという話なんですが、、描き方が違う = 捉え方が違う = 見え方が違うのかな? という流れでこの動画を発見しました。
チームラボの猪子さんが8年前にTEDでプレゼンしている動画ですが、そのなかで日本人独自の空間認識、『超主観空間』というキーワードが出てきまして。。今回は日本人独自の見え方のヒントがありそうな、この超主観空間について整理してみようかなと思います!
庭でみる和洋の遠近感の違い
こちら1682年に建てられたフランスのヴェルサイユ宮殿
こちらは1678年にできた京都の円通寺庭園
どちらもめっぽう綺麗ですが、それぞれの特徴下記のような感じです。
ヴェルサイユ宮殿
遠近法をベースに作られた庭園は、遠くの要素はより大きく作ることによって、ある視点からみた時に遠くの要素が手前の要素と同じ大きさに見え全体としての統一感がみられる。
円通寺の庭園
レイヤー構造のように奥から手前に向かった遠近法を使っているので、奥の山、木々、岩。。など何層ものレイヤーが重なって一つの景観を作り出している。
ヴェルサイユ宮殿の場合は、一番遠い中心点(消失点っていうらしいです)から自分の方に向かった空間の広がりで遠近感を表現しているので、横移動すると中心点がずれてしまうので空間が歪んでしまうんですね。(期待される景色が見れない)
一方の円通寺庭園はレイヤー構造で奥から手前に景色を重ね合わせて遠近感を出しているのでそこに中心点はなく、景観に対して横移動しても景色が崩れることはありませが、レイヤーそのものを超えてまうような縦移動はできません。
西洋の遠近法は横移動ができないので、動線は中心に沿ってまっすぐ描かれる必要がある一方で、日本のレイヤー構造は中心点がないので横移動ができるのが特徴と言えます。
この差がいかにして生まれたのかは分かりませんが、少なくとも西洋と日本で比較した場合、西洋の世界は自分に対して常に正面に存在し、(縦移動がメイン)日本の世界は自分に対して常に横に存在(横移動がメイン)していたのではないかという仮説が立てられそうです。
ゲームから見れる日本独自の空間認識
これは1985年に発売されたスーパーマリオです。
今では当たり前の横スクロールアクションですが、これもレイヤー構造ならではの動線で操作できることから、当時では天才的な発明とされたらしいです。ちなみに、マリオの生みの親は京都に住んでいたそうで、伝統的な日本様式の町で日常的に生活していたがために、世界は常に横に見えていて、それをありのままゲームに落とし込んだ結果、西洋にはない動線だったためウケたのでは?という解釈もできそうです。
空間は常に横にあると認識していれば、横スクロールでもマリオは十分世界を駆け巡っているように感じれたはずです。一方の西洋のゲームはいわゆるFPSという一人称の視点がメインとなっていますね。
常に世界は正面にあるという空間認識であれば、縦方向への移動が中心となるので、真正面の世界にどんどん進んでいく操作が、空間を進んでいるという解釈になりそうです。
絵画からみる日本独自の視点
空間認識に加えて、それぞれの視点に関しても比較してみます。
こちらは有名なモナリザさん
遠くのものは小さく表現することによって遠近感を出していますが、ここではさらに視点に話を移して考えてみます。西洋の遠近法というのは中心点が決まっているので、対象を見る角度を変えると見方が変わり、視点が変われば風景も変わってしまいますね。
例えば、モナリザを描いていたダヴィンチさんは、おそらく女性を真正面から見てたと思うんですが、ここでモナリザ自身の視点になって見てみると、下記のイメージでいうピンク色の視野となるので、ダヴィンチさんをみることになり、モナリザの絵画とは全く違った景色に変わってしまいます。
一方の日本の大和絵はこんな感じです。
ここでも絵を書いた人物の視点になってみますが、(大和絵はそもそも風景を描いたものなので視点という概念はないですが、あると仮定します汗)どの人物に憑依して絵を描いていたとしても、全員同じように見えるのではないでしょうか。当時の世界にドローンなどはないですし、全く見たことがない景色をイメージだけで描くことも難しそうです。
もし仮に当時の人々がこのような視点で世界を見ていたのであれば、自分以外の他人にも同じように見えていたことになり、視点を俯瞰的に共有していることになります。つまり、描き手と描く対象者の関係は下記のようなイメージです。(重なっている部分が共有されている視点)
そんな風に見えるわけないじゃん。と思うかもしれませんが、そもそも人間の視野の焦点範囲というのは、認識している以上に極めて浅く、狭いので、断片的な視点を脳で合成、補完することによってあたかも連続的に見えています。つまり、西洋的な遠近法をベースに考えているから違和感があるだけで、脳で捉えている空間認識次第では大和絵のような世界が実際に見えていたのかもしれません。
このように、他者と自分の視点を共有しているが故に、絵の中のどの登場人物になっても絵を見続けることができる(視点が変わらないので、景色も変わらない)空間認識で観た世界のことを猪子さんは『超主観空間』と呼んでいます。
ゲームの中の超主観空間
誰もが一度は見たことのあるゲーム画面ですね。
ポケモンやドラクエのようなゲームでは、画面上に映っている世界やキャラクターを客観的に見て操作する必要がありますが、主人公がレベルアップしたとき、それを自分事として捉えて操作していたような経験はないでしょうか?(ポケモンの四天王を倒しに進むときは勝手にドキドキしてました)
たとえゲームの世界を客観的にみて操作していたとしても、大和絵のように視点を全員で共有できているとすれば、ゲームの世界の視点に入り込んだからといって見え方が変わることはなく、ゲームの世界に居続けることができます。このような操作プロセスも、超主観空間のような空間認識が継承されている日本人だからこそ発明できたのかもしれませんね。
team-labはそう言った世界観をデジタルとアートで体験できるようにするための試みを日々実験しており、自分がアートの一部になったとしてもアートを鑑賞し続けられるようなボーダレスな世界観を創作しています!(突然の宣伝)
日本独自の文化的価値観
庭園、絵画、ゲームなど様々な観点から日本人の空間認識について考えてきましたが、まとめると以下のような感じです。
・世界をレイヤー構造で捉えていたので、日本人にとっての空間は常に横に存在していた。そのため、横の動線で展開されるデザイン(庭園や屏風など)が多く生み出されてきた。
・レイヤー構造で世界を捉えていた日本人の視点は他者と共有されていた可能性があり、絵の中のどの視点になっても絵を見続けることができる。その視点の影響もありドラクエやポケモンのようなフィールドゲームが誕生したのかもしれない。
学術的に確固たる根拠などはありませんが、(あったらすいません)日本美術や、日本独自のデザインをみていると、西洋にはない独特の切り口を感じることは多く、それらの源泉が文化的な背景であったりする可能性は少なくないし、そう思ってた方が個人的にはワクワクします。
まして、江戸時代の日本人が持っていた独特の視点が、現代のエンタメという形で世界に再評価されていると考えれば、日本人が継承してきた文化的価値観を侮ってはいけないし、欧米には出せない独自の世界観を創るヒントが隠されてるのでもっと勉強したい!と思った今日この頃です! ではまた!
(正直、レイヤー構造と視点の関係性など、超主観空間に関してはまだまだ勉強中なので、より詳しく知りたい方は下記公式を参考にして下さい笑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?