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草木と生きた日本人 梅

一、序

 住吉の 岸の松が根 うちさらし 寄せ来る波の 音の清けさ (『万葉集』巻七・一一五九)
 (住吉の岸の松の木の根を洗ひつつ、寄せる波の音の清いことです)

 誰が作つたかわからない歌ですが、住吉大社のあたりの海辺には、松の木が生え、そこに波が寄せる情景が歌はれてゐますね。
 前回、松についてお話ししました。有間皇子の悲劇。そして宋の謝枋得の「雪中の松柏…」など、道徳的な意味で心ある人たちから大切にされたことなどを紹介しましたね。
 また『万葉集』を開くと、次のやうな歌があります。

 梅の花 咲きて散りなば 吾妹子を 来むか来じかと わが松の木ぞ (巻十・一九二二)
 (あなたの家の梅の花が散つてしまつたら、行く当てがなく、あなたを来るか来まいかと私が待つだけ。松の木のやうに)

 季節は春。そして、まだまだ寒さは続きますが、梅の花の咲く頃となりました。今回は梅の花についてお話しいたしませう。

二、知識人愛された梅


 梅の花といへば、読者の皆さまは何を思ひ出しますか。北野天満宮や湯島天神でせうか。そしてそこに祀られる菅原道真公でせうか。ご存知のやうに、菅公と梅は切つても切れない関係にあります。事実、菅公の家の紋は梅の花ですし、何よりも次の歌がよく知られてゐませう。

 東風吹かば にほひ起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
 (春になつて東の風が吹いたならば、その風と共に太宰府の私のもとへにほひを伝へておくれ。我が家の梅の花よ。お前の主人がゐないとて、春を忘れないでくれ)

 人口に膾炙した名歌でありませう。さすが、学問の神様と讃へられた菅公らしい素敵で見事な歌です。太宰府天満宮には、この歌を刻んだえんぴつが売られてをり、受験の時に愛用された方もをられませう。
 結句を「春を忘るな」とするものもありますが、私は「春な忘れそ」の方がより雅であり、響も美しいことからこちらを取りました。

 梅について、『日本国語大辞典』を見てみませう。

 「バラ科の落葉高木。中国原産で奈良時代以前に渡来したといわれ、各地で栽培されている。宮崎、大分県の一部の山間には、野生状態のものが見られ、園芸品種は三〇〇以上ある。高さ六~一〇メートルに達する。樹皮は堅く黒褐色。葉は卵形で先が急に狭くなり、縁には浅い鋸歯がある。早春、葉に先立って香りのよい五弁花が咲く。色は白、紅、淡紅などがあり八重咲きもある。実は直径三センチメートルほどの球形か楕円形で一方に浅い溝をもち中央に堅い核があり、この中に種子が一つはいっている。梅雨の頃に熟し、食用とするが、未熟のものは青酸を含み有毒。梅干し、梅酒、梅びしおなどを作る。果肉を煮つめたものや皮をむいて薫製とした烏梅は胃腸薬、下痢止め、咳止めとされる。また、室町頃から樹皮の煎じ汁を褐色の染料に用いた。材は器物を作る材料とする。好文木。木花。かざみぐさ。」

とあります。
 ところで、この中に「好文木」とありますね。これは、古代支那の、晉の武帝が学問に励んでゐる時は梅の花が開き、学問を怠る時は散りしほれてゐたといふ故事によります。このやうな故事もあり、梅は菅公をはじめとする知識人に愛されたのでした。
 たとへば、江戸時代を見てみませう。江戸時代を代表する、否、江戸時代において最高の知識人といへば私は義公・徳川光圀を推します。義公は自らを、「梅里」と号しました。さらに、義公から離れること百年後。烈公・徳川斉昭は、先祖頼房にはじまる遺風を受け継いで、

 家の風 今もかをりの つきぬにそ 文このむ木の さかりしらるる
 (我が家の家風は今も尽きないことで、梅の花の盛りも世に知られます)

と彰考館(『大日本史』の編纂にあたつたところ。明治三十九年の完成に伴ひ閉館)の柱に書き付けました。好文木を「文このむ木」と、大和言葉に変換してゐるところに私は注目します。ここに、和歌の和歌たる所以が隠されてゐますから。
 なほ、蛇足ですがこの歌の歌碑が水戸の常磐神社の境内、義烈両公の資料を展示する義烈館の横に建つてゐます。揮毫したのは、斉昭の子慶喜です。慶喜は父と違ひ、穏やかな書を書きますが、父斉昭の書体を真似てゐます。とても見事な歌碑です。

 そして、梅は、寒さに耐えて後、芳しい香りを放つことから、艱難辛苦に耐へて大成する姿に重ねられ、当時の学問のある人達に愛されてきたのでした。

三、『万葉集』と梅


 梅は上の『日本国語大辞典』にあるやうに、支那から渡来し、『万葉集』には百十八首にものぼる歌が詠まれてゐます。これは、花を詠んだ歌の中では萩の花に次いで二番目の多さになります。
 ちなみに、『万葉集』の時代の梅は白梅、または紅梅、どちらでせう。答へは白梅です。それは次の巨勢宿奈麻呂の歌を見るとわかります。

 我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも (巻八・一六四五)
 (私の家の冬枯れの木に降り積ちた雪を、梅の花だらうと目にとまつたことよ)

 雪を梅の花と見間違へたといふ意の歌ですが、紅梅だとさうはいきませんね。同じやうな発想の歌として。次の歌があります。

 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも(巻五・八二二)
 (私の家の庭に梅の花が散る。空から雪が降つて来るのでせうか)

梅を雪に見立て、雪を「流る」と表現するのは、漢詩の技術を応用したものです。作者の技量と教養がうかがはれると共に、流麗な調べに心を動かされます。まさに名歌といへませう。
 この歌の作者ですが、誰だと思ひますか。以前、杜松のところで紹介しました、さう大伴旅人です。彼は最愛の妻を想ひ、

 吾妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る(巻三・四五三)
 (妻が植ゑた梅の木を見るたびに、心が苦しくなり涙が溢れてくることです)

と詠んだことは前に記しましたね。旅人は、萩はもちろん、杜松、そして梅も愛したのでした。
 ところで上の八二二番歌ですが、「大宰帥大伴卿の宅にして宴する梅花の歌三十二首」と題された歌群の中の一首です。巻五の中ごろに収められてゐます。
 時は天平二年(七三〇)正月十三日。新暦で二月八日のことです。大宰府にある旅人の自邸に官人らが集まり、梅の花を楽しむ宴を開きました。そして、この歌群の序文に、「令和」の由来である「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」と書かれてゐることは、多くの読者の知るところでありませう。
 この宴の時、旅人は六十六歳でした。翌年十二月に大納言に昇任し、帰京します。そして、天平三年七月に六十七歳で薨じました。

 梅の咲く時期。水戸の偕楽園の美しき梅や、湯島天神に今を盛りと咲く梅の花を見ると、ひとときの寒さを忘れ、梅の花に心を寄せたいにしへ人の心が、草木、そして花とともに生きた美しい精神が、けふも私どもの魂の中に生きてゐるのに気付くのです。

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