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【竹久夢二】大正ロマンの旗手として活躍した詩人画家

竹久夢二は明治から昭和初期にかけて活動した人物で、おもに美人画が有名です。
その他にデザインや詩歌などでも才能を発揮しました。

意外かもしれませんが、夢二の創作の源は女性遍歴にあったといっても過言ではありません。芸術家によくあることですが、仕事と恋愛が密接に結びついていたのです。

この記事では、竹久夢二の生き様や作品について解説します。
日本美術が好きな人はぜひ最後までご覧ください。



竹久夢二の生涯

竹久夢二の作品には、線が細く儚げな佇まいの女性が数多く登場します。彼の人生はそれと対照的に、太く激しいものでした。
ここでは夢二の生き様について解説します。

夢二の生い立ち

竹久夢二は1884年に岡山県で生まれました。「夢二」はペンネームで、本名は茂次郎(もじろう)といいます。兄がいましたが幼くして亡くなり、夢二は実質的に長男として育ちました。
近隣の人々から「モーさん」と呼ばれて親しまれており、本人は牛みたいだと気にしていたようです。

夢二は少年時代から絵描きになる夢を持っていました。いったんは父の意向に従って早稲田実業学校に進学するも、真剣に学ぼうとは思っていませんでした。
在学中に文章やイラストを雑誌に投稿しており、ときおり採用されることもありました。「夢二」というペンネームを使い始めたのは1905年で、同年にイラストで一等賞を取っています。
いよいよ芸術で身を立てる決心がついたのか、夢二は学校を中退してプロの絵描きに転身したのでした。
余談ですが、夢二は美術学校へは通わず独学で絵を学んでいます。洋画家・岡田三郎助のアドバイスを受けての決断でした。

 夢二の芸術を生み出した3人の女性

夢二は恋多き人物で、生涯に複数の女性と関わりを持ちました。
とりわけ有名なのは以下の3人です。


  • 岸たまき

  • 笠井彦乃

  • 佐々木カネヨ(お葉)

彼女たちはいわば夢二のミュ―ズ(女神)であり、恋愛遍歴がそのまま作品に反映されています。ここでは夢二の芸術を支えたおもな女性を紹介しましょう。

【岸たまき】
夢二が最初に心惹かれた女性で、彼女がいなければ「夢二式美人」と呼ばれるスタイルは誕生しませんでした。
夢二の言葉を借りると「大いなる眼の殊に美しき人」だったようです。いわゆる夢二式美人の特徴は、憂いを帯びた瞳にあるといっても過言ではありません。その源となったのが唯一の戸籍上の妻となったたまきでした。
結婚生活はわずか2年ほどで幕を下ろし、離婚後も同居と別居を繰り返すという奇妙な関係にありました。のちに完全に離別しますが、夢二が病に倒れた際は看病に駆けつけています。

【笠井彦乃】
たまきが店主を務めていた雑貨屋(港屋)に出入りしていた女学生で、日本画を学んでいました。夢二と相思相愛の間柄になるも、わずか25歳にして肺結核で亡くなっています。
生家は日本橋に店を構える紙商で、典型的な箱入り娘でした。
夢二と彦乃はお互いを「山」「川」と呼んで手紙のやりとりを続け、一時的に同棲生活を送りました。夢二との交際に反対する父親に仲を裂かれ、再会できぬまま短い一生を閉じています。

【佐々木カネヨ(お葉)】
最愛の恋人だった彦乃に先立たれた矢先に出会った女性です。プロのモデルとして活躍しており、まさに夢二好みの美人でした。
通称はお葉ですが、本名はカネヨといいます。夢二にはお気に入りの女性に愛称をつけたがるクセがあったようです。
複雑な環境で育ったお葉は「温かい家庭を築きたい」と望みますが、夢二は籍を入れたがりませんでした。2人は最終的に破局し、その後お葉は別の男性と結婚しています。

渡米から晩年まで

女性スキャンダルが多かった夢二の評判は傾き、次第に仕事が細っていきました。
新天地での再起を図ってアメリカに渡航しますが、ちょうど世界恐慌の真っ只中で絵の売れ行きは芳しくありませんでした。日々の生活ですら大変な状況だったため、芸術など二の次だったのです。

夢二はアメリカからヨーロッパへと移るも、結果は同じでした。徐々に体調が悪化したため、失意のうちに帰国を余儀なくされます。この頃から結核の兆候が出ており、何度か貧血で倒れたようです。
1934年に入院して療養生活を送るも、病には勝てませんでした。医師や看護師らに看取られ、49年の生涯を閉じています。


《LONG ENGAGEMENT》の魅力

1926年に発行された「婦人グラフ」の表紙を飾った作品で、七夕をモチーフにしています。
婦人グラフは富裕層の女性向けに作られた雑誌で、1924年から1928年にかけて出版されました。
夢二は婦人グラフの表紙に加え、挿絵や小説も手がけました。時代を先取りしたモダンなファッションが女性の心をつかみ、売れ行きは好調だったようです。

本題の絵を見てみましょう。
右手に細筆を持った女性は、短冊にどんな願い事を書こうか思案していると思われます。一目で夢二式美人とわかる画風で、細い首筋や憂いを帯びた瞳が儚げですね。

この作品の制作年は、ちょうどお葉と暮らしていた時期と重なります。もしかすると彼女がモデルになっているかもしれません。あるいは最愛の恋人だった彦乃の面影も混じっている可能性があるでしょう。

日本人と七夕の関係


七夕(たなばた・しちせき)が日本に伝来したのは平安時代です。当初は宮中行事の1つとして親しまれていました。江戸時代になると七夕は五節句の1つに数えられるようになり、市井の人々にも広まっていきます。

七夕祭りは日本全国に存在していて、旧暦と新暦のいずれかに行事が開催されます。新暦(7月7日)が一般的ですが、ちょうど梅雨の時期にあたるため天の川が見えないことも珍しくありません。
そのため一部の地域では旧暦にあたる8月上旬から下旬にかけて七夕の行事を開催します。たとえば「仙台七夕祭り」が有名ですね。

七夕といえば笹に短冊を吊るします。実は竹と笹に明確な違いはなく、どちらを飾ってもよいとされているのです。いずれも神の依り代として扱われ、神事に欠かせない植物でした。
自宅で七夕を祝うケースは少ないかもしれませんが、もし短冊を飾りたいなら覚えておくと役に立つでしょう。

 

まとめ:多彩な才能を発揮した詩人画家

夢二の肩書きを一言で表すのは難しいですが、強いて表現するなら「詩人画家」とするのが適切かもしれません。絵画・デザイン・文章など、複数の分野で才能を発揮しました。
いわば大正ロマンの申し子だったのです。

もし夢二が現代に生きていたら、グラフィックデザイナーとして活躍していたでしょう。残されたデザイン画はいま見てもおしゃれです。機会があれば夢二の記念館で現物を眺めてみてください。


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