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2021/02/26 肩書き社会

みなさんこんにちは。ヒデです。

僕は「何やっている人かわからない」ってよく言われます。

何をやっているかわからない人

本業はIT関係の経営者・エンジニアな訳ですが、普段はあまりお仕事の話をしないですし、音楽、音声配信、SF映画見る、ミステリ本好き、ガジェット詳しい、ゲーム好き、料理できないのにカフェに興味あるし、そのほかにもたくさんやってきたorこれからやりたいことあります。

端的に説明できる肩書きみたいなものがあれば楽なのですが、正直色々ありすぎて難しいんですよね。

よくよく考えてみたら自分自身を全て一つの肩書きで表現することって不可能じゃないでしょうか。

そうだとしたら人生は肩書きに制限されていると言ってもいい気がしてきてます。

人間、知らない人を目の前にすると「その人が何者なのか?」を見定めようとしますよね(当然僕もそうです)。その中で肩書きって便利なんだと思います。だから相手に伝えるときの「その瞬間限りの」適切な肩書きは必要なのでしょうけど、自分を表現するには難しい仕組みですね。

何者かであろうとした過去

なんでこんな話をしているかというと僕自身が昔「何者かであろうとした」、つまりわかりやすい実績と肩書きを追い求めて壊れそうになったのです。

野心あふれる(これでも昔はありました)若手のビジネスマンにとって実績と肩書きというのはその後の人生を決めるパスポートといっても過言ではないものでした。そのパスポートをゲットするために日々残業し、家庭を顧みず、会食で飲めもしないお酒を飲み、タバコを吸わないのに喫煙所に顔を出し、身体が壊れるまで頑張り続ける。

「何者かであろうとする」という呪いでした。

努力が無駄になったとか、肩書きを求める姿勢が間違っている、ということではなくて、「何者かであろうとした努力のために、自分自身を犠牲にして失う」ことがあるということです。

自分自身を犠牲にしているので、その後には肩書きと「自分ではない何か」がいるのです。それは果たして「何者かになった自分」なのか?

何者でもない自分を受け入れる?

じゃあ何者でもないということを受け入れて歩めばいいのかというとそうでもないと感じてます。「何者でもない」って自分を否定しちゃうと何をしたらいいのかわからなくなってしまう(僕がそうでした)。

何者であるか=肩書きって自分の存在がなくても社会生活で「すごい!」って言われるためにあるんです。

「自分という存在を引き算した時になにも残らないことを認める」って相当勇気のいることだし、僕にはちょっと難易度が高かった。

だから色々やっていることの集合体を「自分」ということにしました。

色々やっている自分=何者かになった自分

「何か一つのことを極めて成果出す=何者かになった自分」という概念を捨てて、たくさんかじっていることの組み合わせで自分を演出することにしました。

「ギターやって弾き語りして英語できてプログラミングして経営者やってる人、少なくね?」みたいな。(どの分野でもレベルとしては初心者にちょっと毛が生えたくらい)

それが自分で認識できるようになってから、心の平穏がすごいです。自分が次々と始めることも肯定できるようになってきたし、必要以上の競争社会に自分を置いて気持ちや体力をすり減らすことも少なくなった。

むしろニッチな領域に手を出すハードルが下がったと思う(どうせ組み合わて考えるのだから最初からマニアックな突っ込み方ができる)。

あえてのデメリットで言うと一言では表せなくなったので自己紹介ですごく困ることくらいかな、、、w

自分に合わなければ別のものを探せばいいし、自分の自由の中でコントロールできる感覚が増えていくのは「持たざる者」としてはとても心理的安全が担保できる。一つのことへの努力の積み上げではなく、バリエーションが増えていくのは変化が激しい時代ではポジティブだろうと思う。

自分の意識のバージョンアップは大事だな。


年上のいうことは半分聞いて半分聞き流すくらいがちょうどいいですが、もし今「何者かにならないといけない自分」で悩んでいるのであれば、呪いからは距離はとったほうがいいし、そんな人生もあるよってのも頭のどこかに置いておいてもらえるといいかもなって思って書いてます。

みなさんが自分らしく人生を歩めますように。

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