聖夜のおとぎ話


マリアは逃げなくてはならなかった

この血を絶やさぬため、いつまでも運命を嘆いてはいられない

「もし万が一、私に何かあった時はインドへ行きなさい。あなたを助ける者が現れるだろう」

あの人が残した言葉だけがマリアの心の支えだった。マリアは幼い子供を連れ、ようやくインドへと辿り着いた

我が子の名は、サラ

名付けたのは父親だった。マリアが彼の子供を肉体に宿したという知らせを精霊から聞いた時、彼がサラと命名したのだ

その時の優しいまなざしを、マリアは今でも鮮明に覚えている

サラは自分の父親の顔を知らない。知っているのはエルサレムの丘で十字架に磔にされ、殺されたというおぞましい事実だけだった

ある日の夜、親子の家にリシと名乗る隠遁者が訪ねてきた。リシはサラを一目見るなり、低い声でこう言った

「…これはヴィーナと呼ばれる楽器だ。いずれ、その子に必要になるだろう」

それだけ言うと、リシはその弦楽器を置いて立ち去った

サラは言葉が話せなかった。だが、弦楽器を見たサラは目を輝かせてヴィーナに触れた

数年が経ち、サラがヴィーナを持てる年齢になると、再びあのリシが訪ねてきた

「準備は整ったようだ。その子は私が面倒を見よう。…その子の父親は、とても優秀なヨギだったよ」

その言葉ですっかりリシを信頼したマリアは、サラを隠遁者に託すことにした。大丈夫、きっとあなたの父さんが見守っていてくれるから

リシはヴィーナの名手だった。時に厳しく、時に優しく、サラにその奥義を伝えた

サラは言葉は話せなかったが、聴覚は異常に発達していた。音だけではなく、木々や鳥や動物の声、それから人の心の声まで聞くことができた

さらに月日は流れ、サラはリシと共にインド各地をヴィーナで放浪していた。彼女の演奏は常に人々を魅了した

ソロモン王家の血を引くサラには生まれながらの気品が備わっており、優れた師と優れた才能に恵まれた彼女が聴衆の注目を浴びることは自然なことだった

彼女のヴィーナから出る音は、まるで水のように澄んでいて、人々の心と体を潤した。サラには僅かばかりの我欲すらなく、どこまでも透明な存在であり続けた

そんなある日、サラの演奏は地元の有力者の目に止まり、サラは宮廷音楽家として仕えることになった

「サラよ、もうお前に教えることは何もない。行っておいで」

リシは父親のように優しくサラを抱きしめると、やがて体が半透明になってどこかへ消えてしまった。サラはリシがこれまでに体が消えたり水の上を歩いたりする姿を何度か見ていたので特に驚かなかった

宮廷音楽家となったサラの演奏は、またたく間にインド中で評判になった。人々はサラの水のように流れる美しい演奏に心を震わせ、涙した

サラは言葉を話せなかったが、多くを聞くことができた。人々が何を考えているのか、何を悩んでいるのか、手に取るようにわかった

そんな人々の心にサラは寄り添い続けた。父が隣人を愛したように

時に失語のサラを中傷する輩がいても、サラは相手にしなかった。右の頬を打たれた父が左の頬を差し出したように

その音色はどこまでも澄んでいて、どこまでも透明だった。まるでサラが存在していないと人々が錯覚するほどに

サラが自分の演奏に我意を込めたのは、ただ一度きりだった。それはマリアが亡くなった知らせを聞いた時で、その日サラは初めて声を出して泣いた

やがて人々は彼女に敬意を込めて、「水を持つ者」という意味の言葉とサラの名前を掛け合わせ、こう呼んだ 


水の女神、サラスヴァティー。


彼女がヴィーナを弾くと、不思議ではあるが腕が四本に見えることがあったという

それは男性の腕だった

まるで愛しい娘を抱きしめる父親のように、やさしく深い慈愛に満ちた腕だった…。

〜fin〜


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