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私が実名発信にこだわる理由。名前にはタイムリミットがある

先日メディアで一緒にインターンをしている同僚と話したときに、彼の発した言葉がなぜかここ数日間ずっと脳裏から離れなかった。

「俺、今考えると匿名で記事書きたかったな。」

私は彼とは反対に、今まで筆者の名前が掲載されないサイトへの記事の寄稿や投稿はあまりしないようにしていた。自分の顔写真を載せるのはそこまで好きじゃないけど、名前だけは絶対に載せて欲しかった。理由は自分でもわかっていなかったのだが、ついさっきお風呂場でシャンプーをしながら唐突に気が付いてしまったため、深夜1時に髪も乾かさずnoteを開いた次第である。

苗字で呼ばれたくない、これってわがまま?

自分のフルネームをGoogleやYahoo!で検索した時に、1ページ目をすべて自分関連のサイトで埋めるのが中高生時代の夢だった。中高生にして、SEOについてしっかり考えていたといっても過言ではない(ということにしよう)。結論からいえば、その小さな夢は叶えることができた。

しかし、なぜ私は自分のフルネームに固執しているのだろうか。幼少期にさかのぼって考えてみたい。

小学校に通っていた頃は、みんながみんな男女分け隔てなく名前で呼び合っていたと思う。でも中学校に入学すると、なぜか過半数以上の人間が互いに苗字で呼び合うようになる謎の現象が起きた。私はその中でも特に苗字で呼ばれることが多く、小学校からの友人でさえほとんどが苗字呼びへとシフトしていった。

私はそれがすごく嫌だった。当時を思い出すと、今この瞬間でさえかんしゃくを起こしたくなるほどに、嫌だ。いつか私が今の名字じゃなくなったら、みんな私のことを何と呼ぶつもりなんだろう。私はいなくなってしまうのだろうか。存在ごと消え失せてしまうような気がして、すごく嫌だ。

私が私でなくなるとき

「結婚した女性が『苗字が変わりました』ってインスタのbioとかストーリーに載せるやつ、あれって自体が目的化していて全然本質的じゃないよね。」

パートナーと選択的夫婦別姓について話していたときの彼の発言だ。ものすごく共感したし、これだから私は彼のことが好きなんだと再認識した。その一方で、私は彼女たちの気持ちもとても理解できる。

幼少期から「結婚相手の苗字を名乗ることが幸せ」みたいな意識を孕んだ価値観の中で育ってきてしまった私たちは、どれだけフェミニズムに触れても、それが女性差別的要素を含んでいるということを理解しても、憧れる気持ちのすべては押し殺せない。

実際に自分が結婚相手の苗字に改姓すると、この淡い幻想は崩れるのかもしれない。でも21歳未婚の私は改姓後の苦痛について、何も知らない。調べたり周りの人から聞いた「情報」だけで、経験したことがないのだから当たり前だが「実感」が全くないのだ。

私がいつか結婚という選択肢を選ぶときが来るならば、そのとき名字を守り抜く自信は全くもってない。2ヶ月前には強気なことを言ってみたが、現実ではきっと私は結婚相手の苗字を名乗ってしまう。もし選択的夫婦別姓制度の導入が実現していたとしてもだ。要するに私の現行の名前での人生はそこで終わるということだ。

旧姓を併記しても、仕事上旧姓を使い続けても、私はその瞬間から完全な私ではなくなる。なんだよそれ、と自分でもツッコミを入れてしまいたくなるが、とにかく私の、今の私としての人生はそこで一度終焉を迎えることとなるということを理解してほしい。

何も苗字が変わるのは女性だけではない

ここまでは筆者である私が女性のために、女性の改姓だけにフォーカスして話を進めてきたが、苗字が変わる例は男性にとっても珍しいことではない。あなたの周りの、両親の離婚や再婚によって苗字が変わった同級生の存在を思い出してほしい。

私は幼少期に「キムタク」のような姓名混合のあだ名を持っていた友人がいたが、改姓後「タナタク(仮)」といった語感の悪いものに変更された。苗字オンリーで呼ばれることの多かった別の友人は、改姓後も旧姓のままで呼ばれた。本人たちも気まずかっただろうし、周りの私たちもとても気を使った。

だからといってあだ名のすべてを否定するわけではない。ただ、男女問わず誰しもが外部的要因によって苗字が変わるということは現行の制度の上では起こりうる。選択的夫婦別姓の導入さえ実現されない国で生き、傷を負わない方法。あくまで予防的措置にはなるが、それはお互いをファーストネームで呼び合うことだと私は思う。

名前だけは確実な自分のアイデンティティ

呼び捨てしやすいように、と両親がつけてくれた私の名前。両親の願いは叶わず、少数の人にしか呼ばれていないのが実情だ。ただ、私がこれから田中さんと結婚し、離婚して旧姓に戻り、次は鈴木さんと再婚し、また離婚して旧姓に戻り、佐藤さんとさらにまた再婚しても変わることがないのは、自らの意思で改名をしない限りは変わることのない、ファーストネームだ。

私が実名発信にこだわっていた理由がこれだ。

私が今の姓を名乗らなくなったとき、私は今までの自分の存在を見失ってアイデンティティクライシスに陥るかもしれない。そのときのために、私が私として、存在していたという証が欲しかったのだと思う。精神を病んだときの私がGoogleで自分の名前を検索して2ページ目までスクロールできるほどの元気がないのは自分がいちばんよくわかっている。だからこそ、検索結果の1ページ目に自分の生きた痕跡を残しておきたいのだ。

もしかすると私は結婚しないかもしれないし、結婚したとしても別姓を選択できるかもしれない。となると名前のタイムリミットはないのかもしれない。それでも、自分の苗字が変わるリスクが少しでも残っているならば、やっぱり私は私として文字を書き続けたい。



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私の友人たちへ

もし私の友人がこのnoteを読んでくれているなら、今まで私を苗字で呼んでいたことに罪悪感を覚えるようなことはしないでほしい。私は一度も「苗字で呼ばないで」「名前で呼んでほしい」という意思表示をしたことがないから、私の胸中なんて友人たちは知る由もないからだ。でもこれを機に苗字とアイデンティティの関係性について考えてみてほしい。決して私だけが抱えている問題ではないこと、あなたたち一人一人に関係している問題であるということ、自分なりに考えるきっかけになってくれたら嬉しいな。


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