日本最東端のしま「南鳥島」で終戦を迎えた祖父が伝えてくれたこと
「わしは左耳がほとんど聞こえんからの」
モサっとしゃべる私の声が聞き取りづらく感じるたびに、そう言った祖父。
祖父の左耳がほとんど聞こえないのは、太平洋戦争中、耳すれすれを弾丸が通ったため、鼓膜がやられてしまったのが原因だそう。
それを聞くたびに、祖父の日焼けした薄い左耳を見た私。
傷こそないけれど、
「あと数センチずれていれば命が助からなかったのだなぁ。
そしたら私も今ここにいなかったんだ…」
そんなことを思いながら聞いていた。
何度も何度も繰り返し聞いた祖父の戦争体験は、繰り返し見た戦争映画とはだいぶ違うものだった。
今生きていれば110歳の祖父は、日本最東端の島「南鳥島(みなみとりしま)」という島で終戦を迎えた。
「B29がボカーン ボカーンと爆弾落としていくんじゃが、あんなもん当たりゃせん。ぜーんぶ海で破裂して、アメリカ人は何を考えとるんじゃろかと思っとった」
「爆撃や銃撃なんか怖いもんか。当たりゃせんからの。
それよりも食べ物がなーにもなくて、腹が減って腹が減って、それどころあるかい」
耳すれすれを弾丸が通った、という話の後に出てくるのはいつもこの話。
終戦まぎわの南鳥島はとにかく何も補給がなく、常に空腹状態だったそう。
食べられそうな雑草を見つけたら、すかさず海水に浸けて石の重りを乗せておく。半日も経てばまるで漬物のようになるのでそれがご馳走だったのだとか。
たまに他人にその雑草の塩漬けが見つかり、こっそり盗まれていることもあったらしく
「やっと少し腹に入れられると思って石をのけたら、盗まれちょることもあった。くやしかったー!」
と言ってカッカッカと笑っていた。
常に空腹、と言っても、雑草をより美味しく食べたい、という気持ちが働くくらいだから、人が人を食べるような悲惨な飢餓状態ではなかったのだろう。
だからか、祖父が話す戦争はいつもどこかカラッと明るく、悲壮感は無かった。
改めて尋ねたことは無かったけれど、きっと祖父は戦時中に人を殺めたりすることもなかったのだと思う。
そんな祖父は本の虫だった。
大学、予備校、高校と、場所を変えながら晩年までずっと国文を教えていた祖父は、暇さえあると本を読んでいた。
家の中で一番陽当たりがよい部屋に、祖父の書斎はあった。
山のような蔵書の中から、その日選んだ一冊を読む祖父。
幼い頃、あまり読書が好きではなかった私も、祖父の隣でコロンと転がりながら本を読む時間が好きで、よく本棚を眺めた。
思い返すと、祖父の本棚には戦争に関する本が多かった。
祖父は、書棚にある本は全部一度読んだものだから、読みたい本は何でも持ち帰って良いと言っていた。
帰省先からたまに何冊か自宅に持ち帰って読んだ。
新書もあれば分厚い専門書のような本もあった。
祖父の持っていた本達は、戦争をさまざまな角度から知る体験となり、
私のその後の「戦争学」という進路にも大きな影響を及ぼした。
国文の先生だから戦争のような歴史書は専門外のはず。
自分自身も戦争に行きながら、なぜそんなに戦争の本を読んでいたのだろう。
96歳まで大往生した祖父に、聞く機会はあったはずなのに、聞かなかった。
悔やまれるけど、悔やんでももう話は聞けない。
私が小学校の頃、毎年夏休みに近づくと学校の授業で『火垂の墓」や『はだしのゲン』のビデオが上映された。
あまりに悲しくて悲しくて、今でもそのタイトル名を口に出すだけで涙が出そうになる。
一方の祖父のあの戦争体験談は私に
物事をさまざまな面から見る大切さを教えてくれた。
戦争から帰り3人の子どもをもうけた祖父。
一番最後、年がだいぶ離れて私の母が生まれた。
初めての女の子に、祖父の可愛がりようといったらなかったらしい。
冬の日に幼い母を連れて出かけた帰り、冷え込んできて寒そうにしていた母を抱き上げ、大事そうにコートの中に包み、長い家路をずっとそうして歩いて帰ったそう。
今でも親族の中では語り草だ。
お見合い結婚が当たり前の時代に、思いもよらぬ娘(私の母)の恋愛結婚。
大反対をしていた祖父母だったけれど、最後「もう娘が幸せになるのならばそれでいいじゃないか、許してやろう」と祖母を説得したのも祖父だったとか。
まさか自分が天国へ行ってからたったの6年で、その愛娘が天国にやってくるなど、思いもしなかっただろう。
日本だけでなく、アジアでもヨーロッパでも、たくさんの人が命を落とした。それも、非戦闘員の女性や子どもが大勢殺されたのが第二次大戦だった。
目に入れても痛くない愛娘を大事に育てながら、きっと祖父は戦争で失われたたくさんの小さな命について何度も何度も考えたんじゃないかと思う。
そんな祖父が、本棚を通じて伝えたかったことは何だろう。
想像でしかないけれどきっと、
「戦争のない世界をどうつくるか」
という問いかけだったのかもしれない。
多くの尊い命が奪われた戦争が終わって78年。
戦争体験者から直接話を聞く機会は年々減っている。
その戦争から生還した命がつながり、今の私がある。
まがりなりにも戦争を専門として学んだものの端くれとして、長い年月を経て、薄れかかっていた記憶の断片を繋ぎ合わせ、文章に残してみた。
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