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いつかの夢


昔、小説家になりなよ、と言ってくれた大人がいた。
その人は私に、『きよしこ』と『12歳の文学』という本をプレゼントしてくれた。
交換日記のような形で、交代で小説を書いていた。
小学生と担任が、そんなことをしているのだから、私はクラスの子たちに嫌われていた。

そんな無責任な大人の言葉に、小学生の私は夢を持った。
「無責任な」なんて書いていることを知ったら、その人は悲しむかも知れないけれど。

最後まで責任を負えないことに対して、どこまで関与していいのか、これは私の長年の悩み。
その一瞬は、相手のことを救えるかも知れないけれど…

話が脱線しました。

その大人は、二年間私のクラスの担任だった。
私は、毎週日記を書いて出して、担任は、時には私の日記と同じくらいの量のコメントを返してくれた。

担任は、君の書いた日記は将来読み返してもおもしろいと思うよ、と言ってくれたけど、私はその頃の日記を今でも読めないでいる。
小学生なんだから、と思えばいいのに、それでも「私」が書いたのだと思うと、恥ずかしくて読めない。
こんなものを大人に読ませていたのかと。
だからいつも数行読んでは、うわああと叫び、落ち着いたら、担任のコメントだけ読んで閉じる。
私は小学生の頃の私から抜け出せないままでいる。

担任のコメントは、いつも真剣に私に向き合ってくれているのがわかるコメントばかりだった。
嬉しかったのは、おもしろいとか、みんな君の優しさに救われてるだとか、本当に人を観察するのが上手いよね、というコメント。
最後の日の、文章書くのずっと続けてね、どこかでまた君の文章が読めるのを楽しみにしているよ、というコメント。

親に『13歳のハローワーク』という本を買ってもらった時、真っ先に「作家」のページを開いた。
そこには作家にはいつでもなれるので、一旦他のことをやりなさい的なことが書いてあった。

私は普通の会社員になった。
なんとなくでなったのに、そこでまた素敵な大人に出会って、「立派な会社員」になることを夢見た。
全く興味のないことを、一生懸命やってみた。
それなりに楽しいと思ったこともあった。
でも、やっぱりこれをこの先何十年はできないと思ったし、興味のないことを好きになることはできなかった。

辞めると言った時、
ゆっくりやりたいこと考えるといいよ、まだ若いし、とその大人は言ってくれた。

私は小学生の頃の私から抜け出せないままでいる。
だから私は、たぶん、やっぱり、ずっと、本当は。


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