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われらは共にあるのか  マイケル・サンデル

(以下は、4月13日付ニュヨーク・タイムズ紙に掲載された論考の仮訳です。執筆者は、NHKの『ハーバード白熱教室』で日本でも有名になった政治哲学者のマイケル・J・サンデル教授。見出し・写真・太字は原文にはありません。終わりに短い補足をつけました。Michael J. Sandel, "Are We All In This Together?",  The New York Times, 2020/4/13

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パンデミックは何を問いかけているか

 パンデミックで弱った経済を立て直すには社会の力を結集せねばならないが、そこでは単に医療や経済の専門知識を動員するだけでなく、社会の倫理的・政治的な側面の再検討が必要になる。われわれが向き合う必要があるのは、過去数十年にわたって考えることを回避してきた根源的な問題、すなわち「われわれは市民としてお互いにどんな責務を負っているのか」という問いである。

この問いはパンデミックのさなかにおいては、まずヘルスケアの分野において緊急性を帯びるだろう。例えば、医療は支払能力に関わりなく全ての人に開かれているべきなのか。

トランプ政権は、保険未加入者が受けるコロナウィルス治療も連邦政府が負担すると決定した。この政策が示す倫理的判断と、医療費負担は市場原理に委ねるという平時の判断とがどう折り合いをつけてゆけるかはまだ分からないが、問題はヘルスケアの分野だけにとどまらない。われわれは、広く不平等というものにどう向き合うかを検討し直さねばならない。大学の学位を持たない大多数のアメリカ人が果たしている社会的・経済的役割をただしく評価し、そしてメリトクラシー(実力主義・能力主義)がはらむ倫理的な負の側面に決着をつけてゆかねばならないのだ。

アメリカのメリトクラシー

 拡大しつづける格差を前にして、2つの政党の主だった政治家たちは、過去数十年にわたって機会の平等を称揚してきた。高等教育へのアクセスを保証していさえすれば、どのような出自のアメリカ人であっても、本人の努力と才能がゆるすだけの高みへ登ってゆくことができるというわけだ。これ自体はまことに結構というほかない原則である。

ところが不平等問題の解決策として考えるなら、「才能ある者には成功の階段を登ってゆく道が保証されている」というレトリックは、その裏に闇の側面をもっている。問題のひとつは、そこで主張されているようなメリトクラシーの原則が、現実にはまるで達成されていないということだ。

例えば、競争の激しい2年制・4年制の大学に入学できるのは、そのほとんどが富裕な家庭の子弟である。イェールやプリンストンのようなエリート大学では、多くの学生が世帯収入でこの国のトップ1%の家庭出身であり、その入学者数は下位60%の家庭出身者すべてを合わせたよりも多い。

そして、階層上昇に足をかける機会が公平であろうとも、それはしだいに市民間の連帯を腐蝕してゆく。梯子を登るという成功の姿が強調される一方で、登ってゆく速度は決して平等ではないという事実が置き去りにされているからだ。

メリトクラシーはまた、その梯子を頂点までのぼりつめた人々の間に好ましからぬ倫理的態度を生み出す。成功というものがみずからの個人的努力の成果だと確信すればするほど、彼らは同じ社会で生きる別の市民に対して、自分たちは何らの責任も義務も負っていないと考えるようになるだろう。

上昇と競争突破の価値を繰り返し強調することは、その競争の勝利者たちに、成功の果実はいくらでも味わいつくしてよい、メリトクラシーの観点からは大した資格をもたない人々を見くだしてよい、と背中を押しているに等しい。

実際にそうした態度こそは、過去40年間にわたって市場原理に支配されたグローバリゼーションの同伴者だった。アウトソーシング、FTA(自由貿易協定)、新テクノロジーとファイナンス規制の緩和、これらの果実を刈り取ることのできる立場にあった人々は、それは自らが成し遂げたことであり、したがって勝利は自らのものだと信じて疑わなかった。

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(外出制限で、人も車も姿を消したニューヨーク五番街。4月18日撮影)

アメリカ社会の分断

 エリートに対するポピュリスト的反発の核心にあるのは、そうしたメリトクラシー的な傲慢さとそれが引き起こす憤りの感情であって、それはまた社会的・政治的分極化の潜在的な源泉となっている。いま政治の世界でもっとも深刻な分断のひとつは、4年制大学の学位をもつ人々と持たない人々の分断だといってよいだろう

過去数10年にわたって、統治の側に立つエリートたちは、全アメリカ市民の3分の2にのぼる数の学位を持たぬ人々に対して、その生活を向上させるために大した手をつくしてこなかった。そして政治の中核であるべき課題に応えることも避けてきた。その課題とは、専門職として特権的立場にないアメリカ市民がどうすれば家族を養うことのできる仕事に就き、コミュニティに貢献し、社会的尊敬を得ることが可能になるのかという課題である。

 経済活動の中心がモノをつくることからマネーをあやつることへシフトするなか、ヘッジファンドのマネージャーやウォール街の銀行家に対して目もくらむような巨額の報酬が支払われる一方で、伝統的な職種はさして敬意を払われなくなった。

企業の収益源の多くをファイナンスが占める時代には、生活に必要な財やサービスを生み出すリアル・エコノミーで働く人々の賃金は上がらず、雇用も不安定になり、彼らは自分の仕事が社会に軽んじられているという感覚を抱くようになる。

新型コロナウィルスがもたらしたもの

 コロナウィルスによるパンデミックが突如としてわれわれに再考を迫っているのは、真に重要な社会的・経済的役割とは一体どのようなものなのか、ということである。

今回の危機において、大半のエッセンシャル・ワーカーたちは大学の学位など必要としない仕事を行っている。トラック運転手、倉庫従業員、配達員、警察官、消防士、様々なインフラを維持する係員、ゴミ回収員、スーパーマーケットの従業員、在庫管理者、看護助手、病棟作業員、在宅介護士。かれらは安全な自宅からZOOM会議に参加するような贅沢を許されていない。

患者のあふれる病棟で奮闘する医師や看護師たちとまったく同じように、彼らは自らの健康をリスクにさらし、そのおかげで残りの人々が感染の危険をまぬかれている。

彼らに感謝の声を上げるだけでは足りないのだ。われわれの経済と社会を作りかえねばならない。危機のときだけでなく平時においても、そうした労働者たちに適切な補償が約束され、その役割がもっている真の価値にふさわしい尊敬を得られるようにである。

そうした社会・経済の再布置は、福祉国家がどれほど寛大に・または抑制的になるべきかといった昔ながらの議論よりも、ずっと広い射程を持っている。この問題を検討するには、民主的市民として社会の共通善 (the common good) に貢献する行為とは一体何なのか・そうした行為はどのように評価されるべきかといった問題を、市場原理とは切りはなして検討しなければならない。

社会再建の処方箋は

 たとえば、上で列記したような労働者たちが家族や隣人・コミュニティを支えるのに充分な収入を得られるように、連邦政府が補助金を出すべきだろうか。彼らの仕事の社会的地位が向上するよう、給与収入ではなく、金融取引や個人の財務管理・炭素取引などへの課税を強化するべきだろうか。

またキャピタルゲインに対するよりも給与収入に対して高率の税を課している政策を、反転させるべきだろうか。サージカル・マスクや医療用品・薬のような財の生産は、外国にアウトソーシングするのではなく、自国内で生産できるよう奨励してゆくべきだろうか。

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(「勇気は美しい」の標語で、看護師たちに感謝の意を表明する広告。ニューヨーク、4月19日撮影)

 パンデミックがひきおこした重大な危機が終息したのちも、社会的・経済的な前提条件はそのまま変わらず残っている。いま目にしている悲痛な物語がどのような遺産を残すかは、われわれの決断次第である

もっとも望ましいのは、いままさに人々が表明しているような連帯の身振りをさらに推し進めてゆくことである。そして公共の場で発せられる言葉の性質をあらため、そして憎悪にあふれていたこれまでの政治的議論を、より着実で倫理的なものに変える道筋を見つけ出してゆくことである。

倫理・公共を新しい姿へと刷新するためには、いま始まりつつある「経済を再始動するためにはどれくらいの命をリスクにさらすことが許されるか」といった、誤解にもとづく異様な言説にも抵抗してゆかねばならない。そうした議論は、経済というものを街に並ぶ店と同一視して、長い休暇のあとでも電気をつけさえすればすぐ活動再開できるようなものだと考えている。

本当の問題は、いつ再開するかではなく、何を再開するかなのだ。この危機の中からどのような経済を立ち上げ直すべきなのか。それは政治に毒を吹き込み、国民統合の理念を損ない、不平等を産出しつづけてゆく経済でよいのだろうか。

それとも、仕事の尊厳をただしく認め、リアル・エコノミーへの貢献を適切に評価し、労働者の声に耳を傾けて、病気や挫折のリスクを人々が均等に分かち合うようなものに転換するべきなのか。

われわれは問わねばならない。経済を再始動することで、過去40年にわたって人々を分断しつづけたかつてのシステムへ戻るのか。それとも、この危機を経て新しい経済を出現させてゆくのか。その新しい経済とは、人々が次のように唱え信じることのできる経済である。この危機に際してわれらはすべて共にある、と。

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短い補足

論考の原題は米国で広く使われている英語のフレーズ "We are all in this together"(私たちは全員一緒だ・誰も孤独ではない)をもじったものです。大きな災害や痛ましい事件が起きて、共に立ち向かおう・共に困難を克服しようと呼びかけるときにしばしば使われていましたが、とくにオバマ大統領はこのフレーズを愛用して、退任演説に至るまで繰り返し口にしました("President Obama's moving farewell address," The New York Times, 2017.1.10)。

このフレーズには、「苦しむ人がいれば必ず誰かが手を差しのべる」という理想の表明と、「困難の前では全員が平等だ」という社会観が含まれています。しかし現在のアメリカ社会は本当にそうなっているだろうか、というのが上の論考におけるサンデルの問題提起です。

たとえば新型コロナウィルスの蔓延が最も厳しい段階にあった4月上旬のニューヨークでは、このウィルスが決して人々を平等には襲っていないという事実が明らかになり、人々に大きな衝撃を与えました。人種別・地区別の感染データが報告されはじめ、感染者・死亡者がマイノリティのアフリカ系やラテン系市民に大きく偏っていることが分かったのです("Virus Is Twice as Deadly for Black and Latino People Than Whites in N.Y.C." The New York Times, 2020/4/14)。ニューヨークのクオモ州知事やデブラシオ市長はこれを問題視して、より平等な社会を作ることを終息に向けた再建計画に加えると宣言しました(Governor Cuomo Rush Transcript, 2020/4/19)。サンデルの論考も、同様の問題意識に基づいています。

サンデルは、『メリトクラシーの暴政』と題する新しい本がまもなく刊行予定とのことです。