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次々に現れる医療技術との向き合い方を考える④~~「科学技術」における「信頼神話」の維持

下記の続き。

 先述したように、医師、特に臨床医はサイエンスやテクノロジーの外部に存在するものである。一方で、これらを社会に提供する立場でもある。いわば仲介役にような役割を担っている。
 だからこそ、「医療技術」以前に、現代の「科学」そして「科学技術」の姿、について知らねばならない

 ページ数のみ示している引用は、以下の名著からである。()内や太字強調は引用者による。

1、科学の変容

我々部外者が何となくイメージしてしまう科学は、未だに「アカデミズム科学」なのではないだろうか?
 確かに20世紀前半までは、科学は「アカデミズム科学」であった。

アカデミズム科学とは、大学の研究室(中略)で自分の好奇心に任せて「研究の自由」を謳歌する、という閉鎖的なシステムの中で行われる科学研究の在り方を指している。
そこでは科学の研究成果は、社会の向かって還元されるよりは、むしろ同業者仲間である科学者共同体の向かって発表され、その成否の判定は同僚評価(peer-review)という形で行われる。
つまり、専門的な研究成果は同業者である専門家のみが評価可能と考えられたのである。

P.229 - 230

しかし、徐々に「科学」と「技術」が融合し始める。そして科学は否応なく社会へ開かれ、社会との結びつきが極めて強くなっていく。
20世紀後半になると科学は「産業化科学」が主体となる。

科学が軍事や産業と結びついて政府や企業から巨額の資金援助を受けてプロジェクトを推進するという研究方式が主流になる。
(社会科学学者のジェローム・ラベッツは)「科学の産業化とは第一に資本集約的研究の優勢と、その結果社会的にもたらされる、科学者共同体の小さな一部門への権力集中を意味する」と描写している。
科学者共同体の小さな一部門とは、プロジェクトの管理運営に携わる科学者たちのことである。その帰結として、科学者は独立性と研究の自由を手放し、その役割も分化せざるを得ない

P.230

(ちなみに、プロジェクト達成型の産業化科学の原型を作ったのはマンハッタン計画だった、という。)

 ラベッツにによると、産業化科学において科学者は次の3つに分化するという。
 ①上司の管理下で働く雇用者
 ②わずかな補助金の継続で食いつなぐ、資金機関から委託を受けた個々の研究者
 ③資金機関との契約に基づいて大規模な研究を組織する部署や機構を管理する請負人
加えて、学術雑誌のレフェリーや資金機関の顧問などである。
そして、③については「科学者」ではなく「科学企業家」と呼ぶのがふさわしい、と言っている。
 つまり、「アカデミズム科学」と現在の「産業化科学」は全く別物と考えたなければならないのだ。
 村上陽一郎は、これを「好奇心駆動型(curiosity-driven)」の科学から「使命指向型(missioun-oriented)」の科学への転換と言っている。後者について、金森修の著書より引用する。

(研究の)主題設定は、知識生産の共同体で決定されるというよりは、まさに、いつ、誰(複数の主体)が、どのような主題に関わるかという文脈によって決定されると見なす。それも、政治的、経済的、歴史的、地理的など複数の複雑な織り目の総体としての文脈によってである。
 個人的な好奇心などは重視されない。
 それよりも、知識生産共同体の外部からの要請がまず起動因となり、それに呼応して、特定の知識生産共同体がその解決のために努力するという構図が明確になる。

下記P.94 - 95

 外部からの要請に対する「使命指向型」である以上、

その研究目的が社会的に承認されなければならず、その成果については情報を開示した上での社会的アセスメントが要求される。つまり、社会的な説明責任が生じてくるのである。
(中略)
科学研究それ自体が国家や社会の要請や産業界の必要に応えざるをえない

P. 234-235

しかし、だからと言ってこれらの要請に無条件に応えることが許容されてはならない。

どのような社会的合意のもとで資金を配分し、研究を進めるかという「科学のシビリアン・コントロール」の観点が何よりも必要となるのである。

P.235

 ところが、この重要な観点は軽視され続ける。

2,「信頼神話」だけが維持され続ける

 科学技術の研究開発は、産業発展における重要性が増し、国家の命運を左右するレベルにまでなった。そのような状況では、進歩主義者にとって「シビリアン・コントロールの観点」などは甚だ愚鈍なものと映ることは想像に難くない。
 やがて科学技術に対する3つの神話が形成されるに至った。それは「価値中立神話」「安全神話」「信頼神話」だという。

 まず、「価値中立神話」道具は使いようなんだから、うまく使ったら大丈夫でしょ、という楽観論だ。

「価値中立神話」とは、科学技術は善悪美醜などの価値に対して中立的であり、それを使用する人間によって善にも悪にもなるという、いわゆる「科学技術=諸刃の剣」説にほかならない。
(中略)
しかしながら、現代の先端的な科学技術については、そのような楽観的な善悪二分法は成り立たない。それというのも、20世紀半ば以降の巨大科学技術は人間が身体的に操作可能な単なる道具ではなく、多くのサブシステムを包括した巨大な社会システムであり、複雑で多様なメカニズムで動いていることから、その影響や帰結を見通すことが著しく困難になっているからである。
(中略)
現代の科学技術は使用者の善意・悪意にかかわらず、否応なく社会的リスクと表裏一体のものなのであり、その意味で「価値中立的」ではありえない。現代社会においてはリスク・ゼロの科学技術は存在しない、と承知すべきであろう。

P.256 - 257

次に「安全神話」
これは先端的な科学技術に潜むリスクを隠ぺいするか、少なくとも過少に見積もることで形作るものだ。
仮に事故が起こったとしても、そのリスクは極めて小さく現実的には無視できる、とする。
そのうえで、価値中立神話と結びつき、諸刃の剣の「善」に基づいた利用を推進することこそが人類の福祉に貢献する、というのだ。

安全神話は、「安全であるべし」という当為を、「安全である」という事実とすり替え、事実判断と価値判断を意図的に混交することによって形作られてきたものである。

P.259

最後の「信頼神話」は読んで字の如く。
「私らにはよくわからん。まあ偉い大学を出て、難しい研究をしている、頭のよさそうな専門家に任しとけば大丈夫だろう。」「テレビとか新聞に見たことあるし、なんかいい人そうだし。」と、何となく信用するアレだ。原発事故や狂牛病問題などで、何度も崩壊の危機に直面しながら、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を利用して毎回崩壊を免れてきた

 実は「価値中立神話」と「安全神話」はとっくの昔に崩壊している。日本においては2011年の原発事故において完全に崩壊したはずだった。いや、それ以前に度々起こる公害問題や薬害問題により、20世紀中には崩壊していたはずだ。
 ただ、この崩壊は見えにくいので、我々の多くは「崩壊していること」に度々直面し、その度に一時的に注目しながら、いつの間にか忘れてしまうようだ。我々の日常は、望む望まないに関わらず、科学技術から多くの恩恵を受けており、その中で「神話崩壊」という「負の側面」が覆い隠されてしまうからだろう。
 とすれば、進歩主義者としては如何に「信頼神話」を維持するか、にのみ注意を払っていればいい、という事になる。

「信頼神話」については、崩壊するに任せておくわけにはいかない。われわれが生きる現代社会は、科学技術の恩恵なしには一日たりとも持続することはできない。その基盤にあるものこそ政治や科学者に対する「信頼」だからである。

P.262

しかし、「信頼神話」さえも原発事故で崩壊しかけていたらしい。
平成24年度版の科学技術白書によると

震災前は12 ~ 15%の国民が「科学者の話は信頼できる」としていたのに対して、震災後は約6%と半分以下まで低下している。
「どちらかというと信頼している」を含む肯定的回答の割合を見ても、震災前に76 ~ 85%だったものが、震災後は震災前より10ポイント強も低い65%前後で推移している。

震災前は「科学技術の研究開発の方向性は、内容をよく知っている専門家が決めるのがよい」との意見について、「そう思う」と回答した者が59.1%であったのに対して、震災後は19.5%へと3分の1程度にまで激減している。

 しかし、この3年のコロナ対策禍の惨状を振り返えると(そして、何となく原発が再稼働され始めている現状も含めて)、「信頼神話」はこの10年強の間に完全に復活しているように見える。そして、「価値中立神話」「安全神話」の崩壊については、全く関心が払われていない。
 これは一体何どういうことなんだろう???
 
 根拠があろうがなかろうが、「何となく信頼される」状況を作り出せば、「信頼神話」は維持され、結果的に「科学のシビリアン・コントロール」の観点が重視されることがない。これは科学者にとっては誠に都合がいい状況である。
 この「何となく信頼される」状況の形成に、メディアや科学ジャーナリズムが与えた影響は無視できないと思う。
(続く)

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