次々に現れる医療技術との向き合い方を考える③~~医師はサイエンス/テクノロジーの手先となっていないか?

②の続き。
ではどうすればいいのか?
イリイチの結論を改変すると、以下のようになる。

1、より多くの人々が過剰な医療の持つ危機の本質を悟り、医療の限界の必要性を知り、今後の医療との向き合い方を考えるための具体的な手順を定義すること。
2、過剰ではない医療に満足する人々、それに関与し続け、ゆえに抑圧されている集団に多くの人々を参加させること。
3、過剰ではない医療を擁護するために、社会が受け入れ可能な政治的または法的な道具を発見し、再評価し、その使い方を学ぶこと。

 コンヴィヴィアル・テクノロジーの著者である緒方壽人氏が指摘するように、1はサスティナブル、2はダイバーシティ、3はインクルーシブ、と言い換えることができる。何という事か、まさに現代において、やかましいほどに論じられているものではないか。確かに理想的ではある。
 しかし、自身の生命や健康の危険を煽られた時に多くの人は「過剰な医療」を望むこと、そしてその状況下においては上記3点など全く顧みられない。それは、今回のコロナ対策禍において、社会が過剰な検査・過剰な予防(特にワクチン)・過剰な治療薬を切望している惨状を目にして、嫌というほど思い知った。少なくとも我が国おいては、最近になってようやく顧み始めてきたか?と感じる程度だ。
 結局、己が危機と感じる事態に対して、その本質を知りたいと願う人や、少数の意見に関心を持つ人や、その意見を受け入れる度量のある人など、極めて少ない、ということだ。
 そして、未だに限界知らずの進歩主義を良しとする人間がまだまだ多数を占めている、ということなのだろう。そもそもSDGsからして、進歩主義が前提となっているのだから、どうしようもない。
 だから、2023年の人類は、この対策を実行できるレベルには達していない、と考えざるを得ない。

 現状、進化を求める側に対抗するためには、全体を変えることを考えるのではなく、個人が現状を批判的に考え、各々で対応するしかない。システムは何も解決してくれないと諦めるしかないように思う。
 しかし、医師に果たして、医療が第2の分水嶺を超えている、行き過ぎている、という意識があるのだろうか?
 
 医薬におけるサイエンスやテクノロジーを人に直接提供される際に、医師の判断が負う責任は大きい。だから、医師はそれらを知らねばならない。それはMR達が提供する表面をなぞったような知識だけではなく、現代のそれらを貫くシステムや思考法でなければならない。さもないと、今回のmRNAワクチンに対する態度に見られるように、いつまでも騙され、デマゴーグとしての役割を背負わされ続けるのではないだろうか?
 だから臨床医が基礎研究に携わることが必要、などという話がある。でも私は、臨床医としての立場を保障されたような状態で、研究者の真似事をすることが良いことだとはどうしても思えない。
 私は医学部の前に農学部を出ている。4年生の時に教室に配属されたのだが、そこで先生方、院生の方々の姿を見て、私はこの方々のように研究に没頭し、人生をささげることは無理だと思った。これは、私が医学部を目指し直した理由の一つである・・・・まあ一番の理由は、あまりに就職が困難すぎて丸腰で社会に出る自信が無かったから、なのだが。なにせロスジェネなもので・・・
 つまり、私はこう思う。医師が下手に研究者の真似事をすると、「研究なんてこんなものだ」と、たかをくくってしまうのではないだろうか?それは結局、サイエンスやテクノロジーに対して、たかをくくってしまうことにならないか?これは問題があるのではないか?と。だから私は、臨床医は臨床研究以外に手を出すべきではない、とずっと思っている。

 医師は、サイエンスやテクノロジーの外部から、それらを評価し批判する立場をとるべきではないのか?医師の主要業務あくまでも臨床であり、サイエンティストでもエンジニアでもないのだ。勘違いしている者が時々いるが、医師はサイエンスやテクノロジーの内部に存在する者ではない。月並みな表現なのは承知の上で言うが、臨床行為はサイエンスよりもアートに近いのだから。
 そうである以上、医師は外部の者として、科学哲学的な観点から、これらと向き合わねばならないと考える
 医師にとって科学哲学は、生命倫理と同じぐらい重要と考える。これらを知らぬままにいれば、医師はサイエンスやテクノロジーの手先に堕してしまいかねないのではないか?いや、すでに堕しているのではないか?と、深く危惧する。最も、手先で何が悪い、と思っている医師も結構いそうな気がするけれど・・・
 次回は科学哲学について少し考えてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?