Blurから見る音楽史

・はじめに

 さて、本企画の第3回、"Jimi Hendrixから見る音楽史"は予想以上の反響をいただき、ビュー数が16000を越え、全記事平均が2000ビューとなり、やはり平均という概念は信用ならぬと思うに至ったのもひとえに皆様の応援のおかげです。誠にありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
さて、前回の冒頭では"踊る"という行為は"鑑賞"の範疇に含まれるのか、という論題を進めており、次回に結論を回すという形を取りましたが、これに関しては資料などを読み、深く考察する必要があると感じたため更に次回に回します。
しかし、このままですと尺伸ばしにもならないので新しい論題の導入を行います。
 テーマとしては"ロックにおける二項対立"です。もう少し踏み込んで言うと、"イギリスのロックとアメリカのロック"、"イギリスにおける中流階級と労働者階級の音楽的対立"についてです。まず、前者ですが、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この○○中心史観シリーズはアメリカ、イギリスのバンドを交互にとりあげています。それは記事のマンネリや中心とするバンドが繋がってしまうことを先延ばしにする意味もありますが、影響を与えるバンド(ジャンルを作るという意味で)の出現の仕方がアメリカ、イギリスで交互になっていると概ね見ることができ、この記事でもそれを追っていくことで何か見えてくるのではないかと考えているためです。
"国の二項対立"については次次回に回すこととして今回ご紹介するBlurというバンドに関連付いた"イギリスにおける中流階級と労働者階級の音楽的対立"について述べたいと思います。
 イギリスという国は現在まで続く階級社会であり、特に中流階級と労働者階級の対立はロック史を大きく彩っています。例えばBeatlesとRolling Stones もBeatlesが労働者側、Rolling Stones が中流側の出身者で構成されており、それはそれぞれのルーツに現れています。今回のBlurは中流の出身であり、それに対立した労働者階級出身のバンドとしてOasisがあります。この関係性はまさしく60sのBeatlesとStonesの関係のリバイバルであり、音楽的にも歴史的にもBlurとOasisが活躍したブリット・ポップムーブメントはブリティッシュインヴェイジョンのある種のリバイバルと見ることができます。この関係性はいうなれば悟空とベジータみたいなもんです。両者のメディアを通した舌戦を見ていくのもまた音楽史を追っていくにあたって非常に面白いのでぜひ、そういった音楽開拓をしてみてくださいな。

・Blur、その音楽性

 今回の前置きは話と関係があるのでお読み戴けると幸いです。みなさんは90年代イギリスで起こった”ブリットポップ・ムーブメント”をご存じだろうか?80年代の”セカンド・サマーオブ・ラブ”や”マッド・チェスター”、”パンク・ロック”、”ブリティッシュ・インヴェイジョン”の影響を受けたバンド群が多く出現したことでイギリスのポップミュージックはアメリカのグランジに押されていたイギリスの音楽は再び世界的な人気を得ることとなりました。Blur以外にはOASISやSuede、Erasticaなど、イギリスの名盤を作り出したバンドが数多く存在します。そんな”ブリット・ポップ”においてBlurはどのようなバンドから影響を受け、どのようなバンドに影響を与えたのでしょうか?

・結成、解散年:1988年-
・メンバー
Vo デーモン・アルバーン
Gt グレアム・コクソン
Bagt アレックス・ジェームス
Dr デイブ・ロウントゥリー
・ディスコグラフィ
1991 Lisure
1993 Modern Life Is Rubbish
1994 Park Life 
1995 The Great Escape
1997 Blur
1999 13
2015 The Magic Whip

 いきなりですが読者のみなさまは音楽のジャンルについてどう捉えているでしょうか?
 私の場合、大きく音楽を分けると、クラシックとポップス、そして前衛になるのではないかと考えています。今回のテーマであるblurは、ロックバンドというよりもポップスバンドの側面が強いです。
 例えば彼らの2nd、3rdのアルバムはギターやベースが引っ張っていく曲よりもキーボードやストリングスを織り交ぜながらメロディアスに攻めているという特徴があり、同時期に活動していたパルプなどもこの路線と言えます。それ以前の”グランジムーブメント”のある意味での簡素さ、そして重苦しく暗いサウンドに対するカウンターカルチャーとしての明るくて軽快なサウンドの、”ブリットポップムーブメント”であることが見て取れます。
 ここから見える新しい対立として、”シンプルと複雑”の対立があります。例えば、ハードロックに対するパンクロックのように、パンクに対するニューウェーブのように、相互に影響を与えながら徐々に徐々に現代の音楽になっていくという構図があるとはかんがえられませんでしょうか?
 現代で言えばその対立は作曲の領域に及んでおり、肉体的に楽器を演奏することとサンプリングのように機械を用いて作曲をすることもこの対立の渦の中にあります。(私はいい音楽なら何でもいいと思います。)
 話がそれてしまったので元の路線に戻しましょう。
 Blurといえば、現在もGorilasで素晴らしい音楽を作り続けているVoのデーモン・アルバーンと”このサイテーな世界の終わり”で音楽を担当するなど、バンドミュージックだけでない活躍を見せるGtのグレアム・コクソンが作り出すトリッキーでメロディアスな世界観が特徴です。長年ライバル関係にあったOasisのGt Voのノエル・ギャラガーもブリットポップにおいて優れたギタリストはグレアムだけだったと語るほど、彼のギターは工夫に富んでいます。そのプレイスタイルはどちらかというとトラディショナルなブルースなどの影響は薄く、ペイブメントやT-Rex、Kinksなどのバンドに見られる、楽曲の世界観を支えるための"ギミック"的なギターで、RATの前段にディレイを置くことでディレイサウンドを汚したり、フランジャーを多用するなど、かっこいい音かどうか、という観点で弾かれたギターはある意味でグランジ的で、エフェクターという文化が多様な花を開かせたのはこの時期かもしれません。
 また、グレアムのソロプロジェクトではThe JAMやMC5のようなスピード感がありつつもそれでいて軽すぎないというまるでコンビニスイーツ評論家のような文章が出てくる楽曲を多く出しています。またアコースティック楽曲も特に優れており、ソロアルバムであるThe Golden DではレッドホットチリペッパーズのGt,ジョンフルシアンテのソロにも通じるようなアバンギャルドでカオスな世界を生み出しています。次に、Blurのセルフタイトルアルバム”Blur”はSong2など、それまでのアルバムと違いデーモン主導ではなく、退屈なポップソングから脱却しようとしたグレアム主導で作られたダーティでギミック満載な屈折したロックといった仕上がりになっており、このアルバムの登場はブリットポップの終焉を知らせたという評論家もいるほどです。
 この記事も終わりに近づきつつありますが、結論として言えば、ブリットポップはBlurに始まりBlurに終わるということなのかもしれません。世界的にはOasisの人気のほうが大きく、Beatlesの二番手としてのRolling Stonesと同じ構図でOasisに続くBlurという印象がありますが、Oasisの人気はBlurとの対立関係なしには成立しえなかったと考えられます。音楽の流行はたった一人や一つのバンドでは作り出せず、あらゆる摩擦によって起きるものであると証明しているのがBlurの存在なのではないでしょうか?

・さいごに

 前回の記事からどれくらい経ったのか全く思い出せませんが、それよりもBlurについて語ることはまだまだあり、例えばエラスティカのVo、ジャスティーン・フリッシュマンとデーモン、SuedeのVo、ブレット・アンダーソンの三角関係など、ゴシップとブリットポップは常にともにあったといえることなど、もっと多くのバンドを取り上げるべきでした。今回は記事のテーマを二項対立に絞ったために歴史観というよりも音楽という概念に対する考え方論という側面がつよくなってしまった印象があります。また、私自身この記事を時間をかけて書きすぎたために曖昧でまとまりがなくなってしまったようにおもえますので、Blurについてはver2.0を書きたいななどと思う所存。これからも読者の方々の応援をお願いして、この記事を締めたいと思います。

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