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バスを見ると思い出す“期間限定”の“日常”

なんとなく散歩してたらパラリンピックのキャラクター・ソメイティのラッピングバスが通っていった。可愛かった。(写真撮り損ねたけど。)
バスを見たらとある事を思い出す。今からそのことについて書いていこうと思う。

バスとわたし

私は普段バスを使わない。地元で通学していたときも徒歩か自転車だった。その他の移動は親の車での送迎がメインだった。

しかし、バスを利用することが日常だった期間が数ヶ月だけある。中学1年生の春、母が癌で入院したときだ。

病とわたしたち

母は私が中学生になった時に卵巣癌を患った。ステージⅢC。よく聞くステージⅣの一歩手前だった。当時の私は事の重大さに気づいておらず、治るもんでしょと軽く捉えていた。いや、軽く捉えることで自分を守っていたのかもしれない。

母は手術のため入院することになった。幸いにも入院先の病院が家から徒歩5分だったので、いつでもお見舞いに行くことができた。

母がいない間は、父子家庭状態だった。父はものすごく働く人で毎日疲れているだろうに、朝早く起きて私と兄の分のお弁当を作ってくれた。あの時の父は本当に凄いと思ったし、大変だっただろうなと今になって思う。
父が当直の日はお友だちのお母さんがお弁当を作ってくれたり、お裾分けしてくれたりと、周りからの協力と連携プレーもあり、不自由なく過ごすことができた。感謝しかない。

バスに乗る日常の始まり

私は学校が終わるとすぐにバレエ教室に向かう日々を過ごしていた。いつも母に送迎してもらっていたが、母が入院したことで送迎ができないということで私は学校から直接バスに乗って稽古場に向かうことになったのである。
当時はスマホを持っておらず(ガラケーでした。懐かしー)、父がプリントアウトしてくれたダイヤ表を見ながらバスに乗る時間や場所を決めていた。普段バスに乗る機会が無かったのでワクワクしていたことを覚えている。「宮交バスカ」というICカードを作り、母のパスケースを勝手に借りて得意げにスポーツバッグからぶら下げていたことも。

バス、母、わたし

バスの中では、入院中の母とショートメールでやりとりしていた。

「定期テスト、7位だったよ!」と送ったらめちゃくちゃ褒められたこと、
英語で覚えたことわざ「a rolling stone gathers no moss」を教えたこと、

楽しいことやイヤなことまで色んなことを報告した。学校で起こったことを話す場所が、バスの中だった。

バスの中の報告会のおかげで、ちっとも寂しいなんて思わなかった。バスとショッキングピンクのガラケーさえあれば、その他は何も要らなかった。

母は、5月に手術をし、無事退院することができた。日常生活を送れるほど復活し、送り迎えも張り切ってしてくれるようになり、私のバス通生活は一旦終わった。


私にとってバスは、特別な記憶が宿る箱だ。
バスを見ると、母の癌の日々を思い出す。そして必ず涙が出てしまう。涙の意味は分からない。バス中報告会という思い出の暖かさに気づいたことに対する涙なのだろうか。


またブルーの車体の宮交バスの8番線に乗りたいな。


母のその後

母の癌は、後に再発・転移が見つかり、夏に再手術&子宮全摘出。抗がん剤や放射線治療を乗り越え母の癌は完治した。闘病生活は1年くらいだっただろうか。不死鳥すぎて笑っちゃう。今年で治ってから9年が経とうとしているが、健康的な問題は特になし。現在もバリバリ働いている。母との日々についても今後色々綴れたらいいなと思う。


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