連帯責任について
今回は前回の「制限」に関わる話になります。
日本社会が西洋に比べて協調性を重んじる風土があることは日本人にのみならず、海外の人にも知られています。
協調性を大事にするのは日本のみならず東アジアのいくつかの国でも、程度の違いこそあれ同様だという話もあります。
これには「田植えの水引に隣人と歩調を合わせることが欠かせない」という習慣からきているとする説など多々ありますが、理由が何であろうと、日本人はいい意味でも悪い意味でも周りを気にするというのは事実です。
再三申し上げているとおり、周りの目を気にする我々日本人の多くは放っておいても勝手に同調圧力を感じ、感じてくれない“ヤツ”には頑張って感じさせようとあの手この手で意気を消沈させようと試みます。
無数にあることわざの中でも「出る杭は打たれる」がなかなか有名だという事実が、我々のその風土を上手くを物語っています。
今回は「周りの目なんか気にしないで伸び伸びやろうよ。大事なのは自分だよ」という類の、人によっては個人主義を賛美する外国かぶれと捉えてしまうような話ではありません。
私自身、自分を大切にしたいともしてほしいとも思っていますし、平均的な日本人より海外での生活時間が長い分、彼らに影響される機会は存分にありましたが、それでも教育の範疇を超えた人生哲学のようなものにおいて「他者への気配り」は大事な要素として置いています。
要は日本人の「おもてなし」ならぬ人類の「おもいやり」が好きなのであります。
がしかし、この「協調性」に関連した、教育の現場でよく聞かれる「連帯責任」に関しては疑問に思うところがあります。
先に正直に告白しておくと、中毒性の高いこの代物を、私自身もその利便性からしばしば利用していました。
「田植え」のような爽やかな経緯ではなくむしろ軍隊を連想させるこの「連帯責任」ですが、誰か一人がルールを破ったら全体が罰を受ける、全体の自由が制限される、という恐怖政治には一定の効果があります。
分かりやすくするためにここではあえて「ルールを守る/破る」を良い悪いの二元論で進めていきますが
「“悪い子”が悪いことをしてしまうと私たちまでもが罰を受けなくてはいけなくなるから、私たちが“悪い子”の面倒をしっかりと見てあげよう」
という“良い子”たちの美しいモチベーションにこの手法の効果を望むのではなく
「私が悪いことをすると“良い子”たちまでもが罰を受けることになって彼らに責められてしまう」
そうなるのが怖いから、という“悪い子”たちのネガティブなモチベーティングに恐怖政治が効くという話です。
これが仮に周りのことを一切慮らない社会で生きてきた人間ならば
「周りが俺の巻き添えを食らって罰を受けようが何かを禁止されようが、俺が受ける罰も禁止事項も内容は全く変わらない」
というところに落ち着いてしまいます。
「禁止されていることをしてはいけない」「やるべきタスクをサボってはいけない」のストップ脳の働きをサポートする“抑制の仕組み”としては、周りを気にする日本人にとってこの連帯責任は理にかなっていて効果的ではあります。
が、実際に罰を受ける部分だけを切り抜くと「受ける罰も禁止事項も変わらない」“悪い子”への対応に“良い子”を合わせるということは、“悪い”ものを良くしよう、“悪い”ものを“良い”ものに近づけようとする教育の志とは真逆の構図になってしまっています。
もし抑制力としての「恐怖」を残しておきたいのであればここで責任を負う連帯者は並列になる生徒や選手ではなく指導者や運営者でなくてはいけません。
私はスポーツが好きですし、学生が好きですし、学生がやるスポーツも好きですが、一つ好めない類のものに「大人の感情が入り込んでいる割合が高いスポーツイベント」があります。
プロの試合であろうとアマチュアの試合であろうと、そこに純粋なゲーム観戦そのもの以外の楽しみ方を乗せることは観る側の自由ですし、というよりメディアがよく作り上げる「逆境からの栄光」「挫折からの這い上がり」のフォーマットからも窺えるとおり、日本ではむしろその要素が入っていないとコンテンツとしては少し物足りない感を持つ人が多いかもしれません。
私自身も震災直後のなでしこの世界一や、長くチームを支えてきたベテランの引退、怪我による長期離脱していた選手の復帰戦などに目頭が熱くなることもあります。
スポーツの素晴らしさの一面であることを考えると当たり前の反応とも言えます。
が、この“ガワ”の要素が強すぎる感のある、言ってみれば学生のスポーツの大会というよりは大人たちのお祭り、一大イベント感が勝ってしまっているような、少なからずメディアがそのような扱いをしているコンペティションもあります。
そしてその手の一大イベントの注目度が高ければ高いほど学生の不祥事に対して敏感に反応し、最終的な対処の決定を思考停止の魔法のワード「連帯責任」でもって済ませがちです。
そもそもの現場の風潮が社会に合わせて変化しているおかげもあってか、最近では一部の選手の煙草や暴力沙汰による、チームの「本大会」への出場停止という懲罰は昔に比べてあまり聞かなくなったものの、それでもその数がゼロになっているわけではありません。
その代わりにセンサーが行き届くようになったのは指導者側の体罰やパワハラといったものに対してであり、そしてこれらの対処に関しては当事者である指導者の解雇など、個人への懲罰で事を済ませています。
にもかかわらず選手の不祥事には個人への懲罰ではなくチーム全体が出場権を剥奪される。
私はここでそもそも罰則による指導が教育的か非教育的かを問うていません。
広く別問題に発展しそうな匂いがするその件に課しては今回はいったんスルーして、懲罰を良しとした場合、誰がそのペナルティーを受けるべきかということを離しています。
日本人(東アジア人)の気質に鑑みて「連帯責任」そのものも受け入れたとしても、連帯するべき責任者は先に述べたとおり、チームメイトの学生たちではなくそこより一つ二つ上の立場にいる人間にすべきではないか、百歩譲っても「学生たちとその上の立場の人間たち」にすべきではないか、ということです。
つまり、大きなトーナメント等の負ければ終わり形式の大会のために、他の楽しみを全てを犠牲にしてその特定のスポーツに捧げてきた“良い子”たちから「連帯責任」という名目で彼らの2年半の努力の結晶を取り上げるのであれば、それ相応の「取り上げ」を(指導スタッフは既に「取り上げ」を食らっているので)学校の責任者、大会の運営者、そのスポーツ協会、組織の関係者までもが受け入れるべきだと思っているのです。
この際もうちょっと乱暴に幅を広げて過剰にそのイベントを持ち上げているメディア関係者も入れておきましょう。
純粋無垢な学生の汗に等しく値するものが、彼ら大人たちに無さそうな感は否めないので、ここはいっちょ大人っぽくお金で解決するのもいいかもしれません。
学生たちが汗水流した時間分の「2年半、50%の減給」
とかどうでしょう。
減給くらいじゃ学生の貴重な青春の時間とはぜんっぜん等価にならない、と一見して思われるかもしれませんが、学生の汗をどのようにして商売に変えるか、あるいは賞賛よりも苦情を優先してどのように組織の体面を保つかしか考えていない大人たちからしたら減給というのは意外と血を流すような痛みかもしれません。
と、ちょっと妄想が走りすぎたので、最後に「日常」に戻してから今回の話を終わりたいと思います。
我々が日々行っている指導の中で、競技とは別の教育が必要である場合、時には罰則が便利になることは否めません。
「時間を守りましょう」「気持ちよくあいさつをしましょう」「整理整頓をしましょう」などの教育です。
例えば授業中の態度が良くなくて担当の先生からお叱りを受けた、そんな選手には部活の時間にそのスポーツをさせないというのが効果的でもあり分かりやすくもありますが、取り上げる方の罰則を好まない教育者は多いかと思います。
そんな時に草むしりなどの雑用をペナルティーとしてあてがうわけですが、そもそも“日々これ鍛錬”の日常の雑務を罰として行わせるのは長い目で見るとあまりよろしくない、とかいう話は一旦置いておいて、そのペナルティーの連帯責任としてペナルティーを与える指導者自身もその雑用に取り組むわけです。
面白いものでこれには一定の効果があり、例えばこれはペナルティーの話と少し異なりますが、整理整頓ができていない部室の片付けなどを毎日のように指導者が一緒に行っていると、次第に部室は生徒たち自身で清潔に保つようになります。
この整理整頓に関しては私自身の経験で言うと、「一緒にやる」が発展して「選手のアップ中に私一人でやる」という段階まで来たときに、やはり放っておいても怪我で練習に参加できていない選手などが勝手に私を手伝いだします。
それをちょくちょく制しては「これは俺の趣味だからキミらにはやらせない」という意地悪をすると、翌日以降、選手たちは私が重箱の隅すらつつけないレベルにまで徹底して整理整頓をしだします。
というわけで今ではすっかりどの生徒よりも整理整頓の要領が良くなってしまった指導者とそれを追いかける選手たち、というイタチごっこのような構図が出来上がってしまっていますが、これのいいところは、ひねくれた見方をすれば偽善のように映りかねない私自身のこの行為を、やっている私自身が結構楽しんでやれるようになり、さらにはそれを真似している選手も「楽しむ」まではいかなくとも面倒くささを感じずに行えるようになる(と少なくとも私には映っている)というところです。
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