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左手の小指が痛くて思ったこと

ある日お風呂に入っていると、左手の小指が痛い。

入浴時、向き合っているものは浴槽やシャワーヘッドのように見えて、自分の肉体や物思いの世界である。

普段透明な自分の肉体は、お湯や蒸気に縁取られて可視化される。そこでは日常では気付かない不調や違和感にふと気づくこともある。左手の小指の痛みとか。

5本指の中で、一番外側にある小指。筋肉が少ないのか、一番動かしにくい華奢な指。

小指の痛みに気づいた私は、自分の所作の荒さを思った。

ちなみに右手の小指は小学校のバスケ部でリバウンドを取り損ねてから曲がっている。休職前には両足の小指の爪も外側から削れていた(パンプスによる弊害)。

負傷した自分の両外側に、細かいことをできるだけ切り捨てようとした自分の生き方を見た気がした。

芯食ったこと言いたい、芯を食いたい、芯さえ食ってりゃいい、芯だけ食いたい。

優先順位を考え、私の芯の部分さえ前に進められれば多少の負傷はいとわない。


切り捨てようとした、というのも、つまり本当は細かいことが気になる。目にはつく。気にし始めると潔癖症になってしまいそうなわたしであるが、思春期始まりかけの小学校高学年、何度お風呂のお湯を張り替えても小さな埃がお湯に浮いているのを見て諦めた。生きていくには多少の塵を受け入れないと前に進めない。

前に進むために私は、少しずつ自分の細かな拘りや気持ちを削いできた。しかし思いのほか前に進むには障害が多く、自分の外側のでこぼこした部分がそこにぶつかる。このままでは外側から少しずつ削れて、精米歩合の低い日本酒になってしまう。それはそれは大いに吟醸。

ある日、闘病(というにはぬるいけども、鳩尾に鈍痛が絶えず続いたりたまに強くなったりするような日々)に嫌気が差して、平日昼間に部屋着のまま湯船に浸かった。
オーバードーズするには少ない、次の診察日までの分処方されたありったけの錠剤とカプセルをお風呂のお湯で飲み下した。両手でお湯を掬って。

配偶者が帰宅する頃には、全裸に着る毛布を巻いて眠りこけていた。濡れた髪にはご丁寧にタオルを巻いていて、酩酊前に意外と気がきくじゃん、わたし。と思った。

しかし湯船に浮かぶ1つの塵も許せず、桶で掬っては流し最後には何度もお湯を張り替えた少女は、十数年のうちに塵を見ぬふりして湯船のお湯を飲むような女になってしまった。

もはや私に残された道は贅沢な日本酒を目指すしかなく、ふっくらつやつや炊きたてご飯として食卓に並ぶことはなさそうである。
芯に向かって削られたお米は、しかし幸せだろうか。雑味として捨てられた自らの外側を、「そこも食べられるんです〜!」と拾いに行きたくはないだろうか。

外側を削られながら進んできた私は、本当に芯だけが大事だったのかしらと立ち止まっている。
もう削られて置いてきてしまった私の外側の部分だって私で、私の両手足の小指だって、もちろん私である。
自らを削って無理矢理進んだ狭い道の先、残っているのは私のどの部分だろうか。
なんかでも、削り損ねて変なとこだけ残りそうだよね。
もう遅いけどさ、たぶん人間は削り過ぎない方がよさそう。

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