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薩摩切子は2~3mmの厚い色ガラスを被せ、緩やかな角度でカットする

薩摩切子とは

「切子」と言われて頭に浮かぶのは「江戸切子」と「薩摩切子」だろう。1mm以下の薄い色ガラスを被せ、鋭角にカットを施す江戸切子に比べ、薩摩切子は2~3mmの厚い色ガラスを被せ、緩やかな角度でカットするのが特徴。
そのため透明なガラスと色ガラスの境目には、美しいグラデーション(ぼかし)が表れる。その芸術性の高さ故に、海外への輸出品や大名への贈答品として使われた薩摩切子。江戸幕府第13代将軍徳川家定に嫁いだ、天璋院篤姫も嫁入り道具の1つとして携えていたといわれている。


薩摩切子の歴史・技術

薩摩切子が生まれたのは江戸時代末期。島津家第27代島津斉興により、薬品に耐えるガラス器づくりがはじまり、28代斉彬のころ、色ガラスとカットの技術が高められた。
薩摩藩のガラス産業振興は、海外に負けない国造りとしての「近代事業」の1つとして行われた。噴火を繰り返す桜島火山の影響で穀類の栽培に不向きな薩摩藩は、収入を得るために西洋型の産業国家づくりを目指す必要があった。そこで「集成館事業」と呼ばれる官営工業地帯経営が行われ、その中にガラス工場が作られたのである。
特に色ガラスにおいては、当時薩摩藩しか発色できなかった「紅」の発色に日本で初めて成功。美しい赤地に繊細なカットを施したガラス作品は「薩摩の紅ガラス」とよばれ、藩内外で愛好された。莫大な資金を投じて官営の事業として推進されたが故に、短期間で海外からも注目されるガラス作品を作ることができたのである。
しかし、薩摩ガラスの歴史は、突然絶たれてしまう。1858年、島津斉彬が急死。多くのガラス工場がほとんど閉鎖されることになった。さらに、1863年の薩英戦争で工場が消失し、西南戦争前後には薩摩切子の技術は20数年で完全に途絶えることとなった。職を失った薩摩切子の職人たちは江戸へのぼり、江戸切子に色ガラスの技術を伝えたという。

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短期間で技術が途絶えた故に、薩摩切子の製法にはまだまだ謎が多い。これらの謎が浮き彫りになったのは、1975年頃に、大阪で始まった薩摩切子の復刻プロジェクトにおいてだった。
例えば薩摩切子の特徴の1つである「薩摩ぼかし」と呼ばれるグラデーションは、色ガラスを最大5段階の彫りにわけて削ることで生まれる。もっとも浅く削ったものは、細い線で細かい紋様を入れるだけで色を抜かない。
さらに、色が抜ける寸前まで彫る場合は、少しだけ色が抜けるまで削るなど、細かい違いがある。薩摩切子に使う色ガラスは光を通さない。そのため、現在より暗い光源の下、厚みのある色ガラスに繊細な彫りを施すにはかなり高度な技術を要したはずだ。それをいかにして薩摩切子の職人たちが短期間で習得していったのか。薩摩切子の謎として、現在も研究が続いている。

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1989年には、鹿児島県でも薩摩切子復刻の動きが始まる。色ガラスをかぶせる技術は独自に開発し、カット技術を江戸切子に学んだ新しい薩摩切子は、伝統の紋様を再現したものと、新しいデザインを施したものが作られている。
現代に蘇った幻の薩摩切子。かつて大名たちの心を捉えて離さなかった、鮮やかな発色とやわらかなグラデーションに反射する輝きは、今も私たちを魅了している。

薩摩切子のブランド一覧

薩摩びーどろ工芸 / 鹿児島県薩摩郡

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世界を魅了した薩摩切子の高度な技術を、いまに忠実に受け継ぐ工房。生地となるクリスタルガラスの製造から手がけ、新しい色やカット技術の開発に積極的に取り組む。

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日本工芸堂の薩摩切子商品ページはこちらです。


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