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不登校の話

中1の5月、私は学校に行けなくなった。

原因

当時は何で行けなくなったのか、うまく言葉にできなかった。
今振り返ると、原因はクラスに馴染めなかったことだと思う。

私の育った町は小さくて、小学校も中学校も1つずつしかなかった。
だから、義務教育の9年間メンバーはほぼ一緒。
中学生になったといっても、通う場所と先生とクラスが変わっただけ、といった気分だった。

中学デビューのしんどさはなかったけれど、お互い知った顔のクラスの中に緊張感もなかった。

やんちゃな子たちが自分勝手に振る舞い。
担任もそれを一喝できず。
いじめこそないけれどとても居心地の悪いクラスだった。

そんなクラスにいることに、私は疲れてしまった。

不登校になった頃

当時の記憶は曖昧で、結局何が最後の一押しになったのかは覚えていない。つらすぎて脳みそが記憶を消してしまったんだろう。
でも、3つくらい断片的に覚えていることはある。

  • 朝の会が終わって美術室に移動しなければならないのに、私は自分の席で涙が止まらず、移動できなかったこと。担任が事情を聞いてくれた気もするが何を話したのか覚えていない。

  • 理科の授業中にやんちゃなクラスメイトがピンセットをコンセントに差し込むというイタズラをするのを見て、心底このクラスが嫌になったこと。イタズラは見つかってそのクラスメイトは先生に怒られていたけれど、この一件で私の心はぽっきり折れてしまった。

  • 通学路になっていた跨線橋のてっぺんから線路を見下ろしながら、「ここから飛び降りたら楽になるかな」と考えたこと。自分の身長より遥かに高い柵がついていたから実行には至らなかった。

跨線橋から飛び降りようとした日、母に懺悔するように泣きながらそのことを話したら、母が私を抱きしめながら
「もう学校に行かなくていいよ」
と言ってくれたことは、今も鮮明に覚えている。

家で過ごす

そこから私は、週に1回のスクールカウンセラーの先生の勤務日だけ学校に行く生活が始まった。
学校に行くといっても、一緒に給食を食べてその後カウンセリングを受けて帰る、2時間くらいの登校だった。

それ以外、平日はずっと家にいた。
家族も私の好きなようにさせてくれていた。
何をしてあんなに膨大な時間を消費していたのか、今となっては思い出せない。
とにかく心の休養をとっていたのだと、今になって思う。

学習

私は、他の人より勉強ができるというのがアイデンティティだった。
それだけはどうしても失いたくなかった。
だから、家にいても調子のいい日は勉強していた。
学校に行っている奴らに負けるもんか、って。

ちゃんと成果を残したいから、定期テストの日は頑張って朝から登校して、別室受験をした。
なぜかこの日だけは頑張れた。
おかげでどの科目も納得のいく成績をとれていた。

不登校の時期の勉強についてはいずれ別の記事に書きたいと思う。

相談室登校

カウンセリングの前後や給食の時間を相談室で過ごしていた縁で、相談室登校をするようになった。2学期ごろからだったと思う。この辺りの記憶も曖昧だ。

相談室では勉強したり、数独をしたり、置いてあるマンガを読んだり、結構自由に過ごさせてもらった。余談だか当時の影響で未だに数独は得意である。

はじめは物静かな男の先輩が2人いるだけで、特に会話を交わすこともなく、それはそれで居心地がよくなかった。
しかし、後に同学年や先輩の女の子が相談室に来るようになり、私は彼女たちととても仲良くなった。そのうちの一人とは未だに親交がある。

行ける日もあった。行けない日もあった。
それでもだんだんと相談室は学校の中での私の居場所になっていった。結局、在学中の3年間、相談室にはお世話になり続けた。

相談室にいたときの話も、ゆくゆくは書いていきたい。

目標

相談室に行けるようになった私は、目標を立てた。
「2年生からは教室に行く」
と。

私の通っていた中学校では2年生に進級するときにクラス替えがあった。みんながまた新たなスタートを切るときに一緒に自分もスタートしよう。そう決めて、教室復帰のために少しずつ頑張り始めた。

まずは、一日中学校にいられるようになることを目指した。
2時間しかいなかった日、午後からしか来れなかった日、午前中でギブアップした日、一日中いれた日。
他の生徒と顔を合わせるのが嫌で、少し遅れて登校した日もあった。
行きつ戻りつしながら、だんだんと「学校にいること」はクリアできるようになった。

次に、科目を選んでクラスの授業に出席した。
幸い、自学自習と空き時間を削って教えてくれていた先生たちのおかげで授業についていけないということはなかった。
毎週、カウンセラーの先生と翌週の予定を見ながら、どの授業に参加するか決めていった。

まず選んだのは国語。私の一番好きな科目だったし、教科担任が生徒から恐れられている女の先生で、授業中に悪さをするやつがほぼいなかったから。
社会は教科担任が好きだから行った。
体育もバシッと注意してくれる先生が教科担任だから行くようになった。
数学、英語は少人数クラスが別に編成されていたから元々のクラスを気にせずに行けた。

その授業でのクラスの空気感に耐えられるか否かが行くかどうかの分かれ目だった。
だんだんと行ける科目の方が多くなった一方で、理科と技術、音楽は1年間避け続けた。

技術は結局1年生のうちに1回も参加せず、評定がつかなかった。通知表の5段階評価が書かれる場所には「♯」が入っていた。

そして、進級

1年生の3月の時点で、7割くらいはクラスで過ごせるようになっていた。
そして進級のときである。
正直、もう一度心が折れたらやり直せないと思っていた。自分の中では後がなかった。

3月末のクラス発表はかなりドキドキした。
新しいクラス表で自分の名前を見つけたときは、安心半分、不安半分くらいだった。

安心できたのは、幼少期からの信頼できる友達が何人か同じクラスになったから。とても心強かった。私がとても苦手にしていた生徒が同じクラスでなかったのも幸いだった。

不安だったのは、1年生のときのクラスで比較的やんちゃだったメンバーが何人かいたから。まあ、私が苦手としている全員と違うクラスになるわけがないし、何人かは一緒になると覚悟していたので、ここはうまくやろうと割り切った。

4月に入って担任が発表された。
私の担任は、私が相談室にいた頃に時々理科を教えに来てくれていた先生で、数少ない1年生からの持ち上がりだった。その先生は1年生のとき、教科担任でも担任でもなかったけれど、私のことをとても気にかけてくれていた。

だから、担任が発表されたとき、私は
「先生のクラスに拾ってもらった」
と思った。改めて話さなくても、今までの経緯は知ってくれている、というのがとても心強かった。

その後の私

その後も不安定な時期はあった。
だけど、再び不登校になることはなかった。

月に1回はどんな理由でも休んでいい、大人で言うところの有休制度を母と取り決めて、実際に月1くらいで欠席した。でもそのおかげで、しんどさでパンパンになる前にガス抜きができた。
休んだ次の日は案外けろっとして登校していた。

担任は頻繁に面談をしてくれた。
私は素直に思っていることをぶちまけた。私は話すとスッキリするタイプなので、この時間はとてもありがたかった。何より、大好きな先生に気にかけてもらえていることが嬉しかった。

カウンセリングも続けた。
雑談だけで終わる日もあれば、深刻な悩みを持ち込んでえんえん泣いている日もあった。カウンセラーの先生に会いたくて、先生がくる曜日は頑張って学校に行った。

相談室には昼休みに訪れることが多くなった。私が初めてきたときにはひっそりとした部屋だったが、いつの間にかちょっとクラスに馴染めない子たちの居場所になっていた。相談室の先生も歓迎してくれた。学校の中で心から安心できる場所があって本当によかった。

いろんな人に支えられて、私は無事に中学校を卒業した。


不登校は、人生で初めての挫折だった。
思いもよらない挫折だった。
そこから、「世の中には自分の想像が及ばない出来事がたくさんある」と知った。
それによって、私は周りを見られるようになった。
「みんな、いろいろな事情を抱えているんだ」と想像できるようになった。

不登校になるまでの私はプライドが高く自分のことしか考えていない嫌な奴だった。
早々に鼻っ柱を折られてよかった。

自分は周りの人に恵まれていると感じられるようになったのも。
失敗してもいいと思えるようになったのも。
いわゆる「普通」の道以外にも生きる術はたくさんあると知ったのも。
全部この経験があったからだ。

不登校はつらい。ならないに越したことはない。
でも、私にとっては通らざるを得ない道、大人になるための道だったのだと思う。

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