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「役に立つ」信仰

うつ病になって自分と向き合い、気づいたことがある。

私は、「人の役に立たなければならない」という強迫観念的な信仰を持っている。

具合が悪くて何もできないとき、夫に言うのはきまって
「役に立たなくてごめんね」
だし、ただ寝ているしかないときも
「私は何の役にも立っていない」
と一人思って悲しくなる。

いつから「役に立たなければならない」と思い始めてしまったのだろう。
思い出せないずっと昔から、いつの間にか私の心に染みついてしまったようだ。

親に、「役立たず」と罵られたことはもちろん、「人の役に立ちなさい」と厳しく言われた記憶もない。
でも、子どもの頃から抜けないこの感覚は、きっと私の育ってきた過程に理由があるのだろう。

今のところ思い当たるのは、私がいい子にしてお手伝いをしていれば母も父も機嫌がよかったこと。
別に人間、不機嫌になることもあるんだからと割り切れればよかったのだが、人一倍敏感に他人の気持ちを感じ取ってしまう私にとって、誰かが不機嫌な環境はとても耐えられなかった。

「いい子にしていたら気持ちよくいられる」という成功体験はいつの間にか「いい子じゃなきゃいけない」という義務に自分の中で変化した。
そして「いい子=人の役に立つ子」という図式が自分の中で出来上がり、「役に立つ」信仰が形成されたのだろう。

今、うつ病のためフルタイムで働けず、家事もまともにできない私は、社会の中で「人の役に立つ」ことに飢えている。
人の役に立ちたい、でも何もできない。
そんな自分がもどかしく、切ない。

私が
「役に立たなくてごめんね」
と言う度、夫は辛抱強く、
「僕は役に立つとか立たないとかであおいちゃんと結婚したわけじゃないから、何もできなくてもいいんだよ。いてくれるだけでいいんだよ。」
と言ってくれるが、頑なな私の心は本心からそれを受け入れられない。
「生きているだけでいい」とか、「生きているだけで誰かの役に立っている」とかは、正直今の私には綺麗事にしか聞こえない。

社会のお荷物、何の役にも立たない自分に何の価値があるというのだろう。

いっそ、「役に立つ」信仰を捨てられたら、と思う。
役に立つかどうかなんて相手の尺度でしかないのだから、自分の尺度で図々しく生き延びられたらいい。
でも、「自分の尺度」ってなんなんだろう。
「役に立つ」以外の尺度なんてあるのだろうか。

それが見つからないとうつ病も治らない気がしていて、でもどうしていいかわからないのだ。

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