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面談場所は理科準備室

我ながら、学生生活で先生に恵まれるタイプだったと思う。
嫌いな先生もいたにはいたけれど、学生生活を思い返すと好きな先生が数えきれないくらい出てくる。

そんな中でも、一番お世話になったのが、中学2、3年生で担任をしてくださったN先生である。
N先生は理科担当の男の先生で、ソフトテニス部の顧問。ソフトテニスと解剖を愛する、フレンドリーで面白い先生だった。

N先生との出会いは中学1年のとき。
当時私は相談室登校をしていた。
私と同学年で別のクラスだったYちゃんも相談室登校の仲間で、そのYちゃんの担任がN先生だったのである。

Yちゃんの様子を見に相談室に来る先生。
はじめはそれくらいの認識だった。

ある日、N先生はYちゃんと私、それに一学年上のRちゃん(我々3人はとても仲がよかった)を誰もいない理科室に招待してくれた。
「気体を集める実験をしよう」
授業に参加できない私たちのために、N先生が実験の用意をしていたのである。

N先生と生徒3人だけの授業。
水上置換も、上方置換も、下方置換も実験した。
集めた気体が何か確かめる方法も教わった。
酸素を確かめるために試験管に線香を入れようとした私は、照準が狂って自分の人差し指に線香を当ててしまった。慌てて水上置換のための水槽で冷やしたのもいい思い出だ。
ずっと教科書とノートだけで勉強していた私にとって、実際に見て触れられる授業、しかも安心して受けられる授業は夢のようだった。

あっという間で、特別な時間だった。
私はいつの間にか、N先生のことが大好きになっていた。

2年生になるとき、クラス替えがあった。
私はクラス替えをきっかけに、通常登校をすると決めていた。
新しいクラスは3月末に発表されたが、担任は始業式までのお楽しみということになった。

迎えた始業式。
私の新しいクラスである2組の担任がN先生だと発表されたとき、ほっとした自分がいた。
知っている先生だという安心感、そしてそれが大好きなN先生だという嬉しさで、がちがちになっていた肩の力が少し抜けた。

後に、N先生は私を自分のクラスに拾ってくださったのではないかと思うようになった。
かつて教員をしていた母から、クラス編成は担任の先生で話し合って決めると聞いていた(もっとも、母が教員をしていたのは他県だったから、私の学校がどうだったのかは分からない)。
2年生のときの私の学年は、新しく赴任してきた先生2人、1年生のときから私たちの学年の担任だったが私とは面識のない先生、そしてN先生の4人が担任団だった。この中で私の事情をよく知っているのはN先生しかいない。

他の先生が担任だったら、不登校だったことを改めて説明しなければいけなかっただろう。
N先生はもちろん1年生のときの私を知っていたから、去年の話をしなくていいのはとてもありがたかった。
私はN先生に拾ってもらったと信じて、その恩に報いるためにも頑張ろう、と密かに思っていた。

N先生率いる2組は、去年のクラスよりずっとずっと居心地がよかった。
今でも思い出すのはみんなで大笑いしている場面ばかり。笑顔と優しさに溢れた、でもやるときはやるクラスだった。
学校が苦手だった私も、少しずつクラスに溶け込んでいった。

時々、N先生と面談をした。
それは面談期間ではない時期にも行われた。
理科の授業が1時間テスト勉強になるときや、学活でみんなが活動しているときなんかに、私だけ呼ばれてN先生と話した。
朝練、授業、放課後の部活とぎゅうぎゅうのスケジュールだった中学校生活。授業中に面談なんて本当はよくないのかもしれないけど、そこしか時間がなかったのである。

場所は決まって理科準備室。
大きな机の上に実験の用具やその他何かわからない色々なモノが置いてある雑然とした部屋で、N先生と向かい合う。
最近の様子、困っていること、学校生活でつらいこと、なんでもN先生に話した。
N先生はじっくり話を聞いてくれて、決して私を急かすようなことはなかった。
N先生になら、つらいことも悔しいことも何でも話すことができた。

N先生が面談をしようと声をかけてくるタイミングは絶妙だった。
私が「最近しんどいな…」と思っているときにドンピシャでお呼びがかかる。N先生には全部お見通しだったみたいだ。
N先生との面談は、私にとって息抜きの場だった。理科準備室を出るときはいつも、少しだけ気持ちが軽くなっていた。

私の通っていた学校では、毎日日記を書くという宿題があった。
N先生は毎回、提出された日記に手書きで丁寧にメッセージを書いてくれた。
私はN先生のメッセージを楽しみにしながら、毎日書いた。楽しかったことだけじゃなくて、もどかしいこと、悲しかったこと、悔しかったこと、色々なことを書いた。

一度、合唱コンクールの伴奏者に立候補したことがある。一旦は私しか立候補者がいなくて私に決まったのだが、後から「私もやりたい」という子が出てきた。N先生は伴奏者決めを白紙に戻して、オーディションで決めることにした。
私は納得がいかなかった。
その日の日記には、N先生への腹立たしい気持ちを書き殴った。それに対してN先生がどんなコメントを書いたのかはもう思い出せないけど、私のぐちゃぐちゃした感情に真摯に向き合ってくれたのは覚えている。

不定期の面談と、毎日の日記。
N先生とはたくさんコミュニケーションをとった。
私は時々休みながらもなんとか2年間、登校し続けた。

卒業式前日、最後の日記。
N先生から、こんなコメントをもらった。
「出会った頃は弱くて倒れてしまいそうな女の子でした。でも、今はとても強く優しい女性になりましたね。」
読みながら泣いた。N先生は、私が思っていた以上に私のことを気にかけてくださっていた。
私のことをこんなに見守ってくれた人がいたことが、嬉しくてたまらなかった。

よく晴れた3月のあの日、私は笑顔で中学校を卒業した。

今も時々、理科準備室を思い出す。
大多数の生徒にとっては何の記憶にも残らない場所。
でも私にとっては、悩み苦しみもがいて生き延びた中学校生活の思い出と、N先生のくださった優しさが詰まった大切な場所だ。

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