旅と他火の関係から見る日本民族のこれから

所謂素人の個人研究です。


 旅の語源は他火だという説がある。旅と言えばコロナ禍において他県や異国に出かける習慣も格段に減ったが、知らない土地を踏むという行為の面白さは近代以後に育まれた物なのかもしれない。

 元来、日本民族は自分の家の火は神聖な物だと認識していた。大陸の遊牧民であれば獲物を追って家畜と共に移動する生活をしていたから、小さな島の集まりにテリトリーを持っている日本人に比べると定住の意識が低い。その点で日本人の家族の住処は定住であり、海外の住居は元来、モンゴル民族の大帝国の構築やゲルマン民族の大移動などの歴史に代表されるように移住という考え方が強いように思う。日本人は一か所に定住するからそこで火を熾し寝食を共にし、自分たちの還る場所としての意識を高く持ってきた。海外では今でも国境が陸続きになっている国が多いから他国に移住しようと思えば日本に比べて敷居は高くないだろう。その点で言えば海外は大昔から特定の場所で火を熾して家族と寝食を共にする意識は低いのかもしれない。

 日本民族は自分の家というものを大事にしている。自分が生まれた場所は先祖代々の土地であり、跡継ぎが続く以上子孫代々守らなければならない家、と言う意識が古来より存在している。火は暖を取り、食を温める手段としてヒトの心象に原始的な拠り所を持っているのであって、家を守ることはその家で熾される火を大切にする考えが原点にあった。もっとも、科学の発達した現代ではライターを押せば火は点くししコンロを回しても点火する。暖を取るにもリモコンひとつで暖まるので火と言うものに対して有難みを感じる機会は減っているように感じるが、日本で家族と言う共同体を紡ぐことに火は欠かすことのできない存在だった。

 家族意識が強い。これは定住化した日本人の美意識に捉えられるが、言い換えれば他所の者を非常に恐れる排他的な思想と表裏一体にも感じる。

 他火。読んで字のごとく他の火である。では他の火とはどんな火を指すのか。それは他の家で熾された火の事である。旅の語源が他火であるならば、旅は他所の火にあやかって食住を共にするという、いわば他人のテリトリーを侵す行為であり、旅先の人間に言わせればよそ者に生活を提供するという不気味な行為であると解釈ができる。古代から中世期の日本では旅は刑罰の一種であるようにさえ思う。鎌倉幕府の創始者源頼朝は少年時代に平清盛によって伊豆に流されたことは有名だし後醍醐天皇は鎌倉幕府を討幕する計画が露呈して隠岐に流された。これも見知らぬ土地の火にあずかるという意味では旅(すなわち他火)である。心細いだろうし、受け入れた地域の人々も見知らぬ地のお偉いさんとも罪人ともわからない人物をどう遇していいか始末に困る有様だろう。

 これが江戸時代に入ると事情が違ってくる。第一に交通が整備されたことで人の行き来に利便性が生まれた。俳諧では松尾芭蕉が奥の細道と言った紀行文を残したことは有名であるし、大坂などは天下の台所として商業の中心となった。日本人にとって刑罰の一種であり他の家の火にあやかる旅が、他の地に足を踏み入れることへの敷居が下がりより身近なものとなった。とはいえ厳格な幕藩体制に置いて藩と藩を安易に行き来することは武士を、ひいては藩を引っ張る藩主を裏切る行為に等しいとされてきた。幕末では脱藩と言う小説やドラマでも聞き覚えのある言葉になる。家族単位で守ってきた組織が藩の単位になり、生活の共同体の単位が村と村、藩と藩に膨れ上がった。この時点では、旅には依然暗い印象がまとわりつく。

 事態は近代に入り大きく変わった。江戸の幕府が崩壊し、明治政府による新時代が幕を明けると海外から鉄道の技術が伝わった。首都東京は今ほど身近ではないにせよ、命を賭して行くほどの覚悟は必要でなくなった。藩は廃止され県が生まれ、次々に鉄道が生まれやがて自動車が発明されてゆく。そうすると旅や旅行と言うものは庶民にも身近に、手軽なものとして広まった。時代を経れば出稼ぎ労働者が現れるようになり、仕事を他所に見出すようになった。

 では日本人の家族意識、仲間意識、排他思想と言うのはどのように変わり、どのような道を辿っていくのか。私としては幕末以前に比べて小さな部落単位の仲間意識と言うのは減りつつある、と感じる。とはいえ依然として海外の人を怖がる光景は見られる。明治に入り国際化が進み、日本人と言う意識が我々の中で強く芽生えたため、家族から村、村から藩、藩から国へと家族形態が大きく変わりつつある。だが一方でグローバルな考えを持ちえない人々、古い排他的気質が色濃く残っている地域や気質も存在すると思う。村と村の因縁を未だに捨てられない人、家族単位で他所を嫌う風習は日本人の潜在意識として残っている。人が赤ちゃんから急に老人になり得ないように、人の気質も時間をかけなければ変わらない。だが排他的と言うのは一方で家族意識が強く仲間を大切にする気持ちが強いことの表れだ。私は排他的でいることを肯定はしないが、日本人が古くから培ってきた家族意識と言うのは大切にしなければいけないと思うし、これからの日本人が海外の人々、いわゆるよそ者と付き合っていく上での課題だろう。

 コロナ禍にありつつも、現代は本来人の行き来が容易な時代だ。旅によって他所の火のお世話になる事の価値を見直しつつ、日本人が大切にしてきた家族意識を示していくことが、次の時代に残された日本人の在り方の大きなテーマに思う。

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