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まとまらない人、まとまらない感想

「まとまらない人」(著:坂口恭平、2019年発行)を半分まで読んで、筆者の坂口さんの衝動的な流れのある執筆方法に感化されたのでつらつらと書く。

あまり本の内容とは関係ない。悪しからず。


楽しめない芸術

これ、絵だ、ってわかっちゃう、深みがない絵、手を突っ込めない絵を、僕はベタ絵と呼んでいる。奥行きがない。ディープイリュージョンがゼロなの。(p.110)


僕は視覚的情報にあまり興味を持たない。より正確に言えば視覚的に表される論理的な情報以外には興味を持たない。
興味を持たない代表としては主に芸術的と言われるような絵画、反対は工学的に意味のあるデザインをしているロボットだろうか。


まあ、何が問題かというと、自分は「まとまらない人」の文中で示されるディープイリュージョンであるとされる絵を見ても楽しめないな、と感じたことである。消費者としてもクリエイターとしてもどうなん、というのもあるが、それまでの内容で坂口さんとのシンパシーを感じていた僕は、その差異が気になった。


思考を解き明かす

僕は意味を見出したい。意図を、理論を、理屈を、真理を。僕にとってグラフィカルものは情報量が多すぎる。
気の迷いのような筆遣いや、たった1ドットの揺らぎ。それら全てに意図が含まれているのだろうか。それらは早い思考の中での出来事の結果であり、その意味の半分も作者は知らぬのであろう。気に食わない。


何が気に食わないのかは今の僕には分からない。絵描きならその気持ちをふんわりとした気持ちのまま絵にして残すのだろう。僕はそれでは満足できない。あくまでも解き明かしたい。もちろん、絵を描くことによってその理屈が解明しやすくなるのであれば、いや、面倒くさいな。


とにかくはっきりさせたい。この気持ちがどこから来ているのか。絵にしてしまえばそこが終着点になってしまう。そして絵から作者のその人となりを察するにはあまりに情報量が多すぎるし、その内容は抽象的だ。その人が見て来たものを僕は知らない。自己の掘り下げを他人に委ねるのか?


自分はその浮かんできた情景をそのままに納得することは出来ない。感情を言葉にしないと気が済まないのだ。


道具としての絵、音、言葉

しかし言葉というのも万能な物ではないのではないか?人によって解釈が分かれてしまうのも視覚的情報と変わりない。言葉に優位性があるとすれば、定義、だろうか。

自分の中の自分の感情を定義づける、その作業に言葉というものはとても便利なツールだ。一つ一つの言葉に論理があり、それを論理に則って組み立てる。数式と同じだ。絵画は式を組み立てるには向かない。

では音楽はどうか。音楽は好きだ。言葉のないインストだって好きな物は好きだ。絵と何が違うのか。
簡単に思いつくところだと時間だ。文章と音楽には時間軸がある。視覚的情報にはないものだ。動画ならいいのか?
動画はまあ見れる。流れがある。流れというのは定義だ。それかもしれない。設定、フラグ、伏線、それらってつまり定義だ。定義されているからこそ想像が出来る。予測がつく。予測は楽しい。

話がそれている。


心に輪郭を

ではディープイリュージョンとは何か。文中では明言されていないが思うに言葉にできないあれこれ、速度に関わらず記憶、に紐づいた情景。その表現。
ディープ、奥ゆきとは具象にならない記憶のことではないか。その情報をにじませる。また、自分の情景を喚起させる。「まとまらない人」を読んで察するに、坂口さんは無意識の膨大なインプットから無意識によるあふれんばかりの記憶のパッチワークが作られている。文中では自分のことを「トンネル」と称しているが、実際の役割としてはフィルターの方が近いのではないかと思う。そんな記憶の出入りが激しい人だから記憶の呼び水となるような余地のある芸術作品が好きなのだろうか。割と真実に近いのでは?なら僕は?


坂口さんほどではないにしろ、記憶の出入りは多い方だと思っているが、フィルターを通したその不安定なままの記憶を僕はそのまま表に出したいとは思わない。それは自己の表現の手段の一つに過ぎない。僕はこれをより具象的に、理論的に説明したいと思う。それはこのフィルターの仕組みを解き明かしたい、どんな水を入れたらどんな水を吐き出すのか。書いていて思ったが、この創作という行為はよく人が言うようにまさしく排泄物だ。僕はその排泄物を綿密に調べる係だ。こう書くとなんか嫌だな。

独特な感性を持っている人はつまり独特なフィルターを持っているということ。だからフィルターを通して出て来た排泄物をそのまま出したって、それはすでに面白いのだろう。多分しっかりとした固形の排泄物だからこそそんな芸当が出来るのだろう。僕のはさしずめ下痢か。

だから僕がフィルターを通して得たこの景色を表現したいならば、何を食べたかわからんようなものをそのまま出すよりも、何を食べたか大体は知っている僕自身が、どういった関数でそれを排泄したのかを解き明かした方が早い。分かりやすい。あと、誤解してほしくないという恐怖が昔から強くあることも関係しているかもしれない。どうせ知るなら真実を知って欲しい。


だからどちらかと言えばベタ絵を描きたいのだ。本来なら。でも面倒くさい、そりゃ。一筆一筆に意図を持って描いてらんない。ただでさえうまくもないのに。下手糞がやったってそれが意図なのか偶然なのか分からない。

フィルターを通したそのままの景色を映すなら、偶然と意図は同義になるかもしれないけれど、そうじゃないやり方を選ぶ僕には出来ない方法である。フィルターを通す前の記憶と通した後の情景、その二つからフィルターの形を推察していくことが僕なりの自己表現となりえる。するとフィルターそのものが自己と言えるのではないか?


相違

坂口さんと僕は感じていることや考え方、割と似ている部分はあるようだけれど、創作に対する手段が真反対を向いている。以前twitterを覗いてみた時に感じた、「なかなかわかってる人だけどなんだか受け付けないな(何故か上から目線)」という印象が、これで裏付けられたのではないか。

僕からしたらあそこまで論理的に考えられる人ならば、曖昧な表現のままそこで思考を終わってしまうのは勿体ないと感じたけれど、そもそもおいているゴールの位置が違うということを理解した。いやそりゃそんなことは今までいくつも感じて来たことだけれど、それはただ思考する努力が足りないからそんなことになっているんだと思っていた。

けど違う。心の在り方を明確にしないという不健康な状態からの解放、それを言葉の論理に頼る以外のやり方があるというだけのことだ。ようやく胃の腑に落ちた。



最初の方に気に食わないと言った。あれは絵描きではなく坂口さんに向けた言葉なのではないだろうか。自分と近い思想をしていながら途中で真反対を向いてしまった人に。

坂口さんがディープイリュージョンが好きな理由はおおよそ理解した。僕はよくわからんものは好きではない。僕と坂口さんは目的が一緒でも手段が違う。在り方が違う。片やトンネル、もう一つは謎を暴く科学者だ(人間を観察する宇宙人という意見もあった)。それらを踏まえ、今まで僕がいいなと思った作品群を考えると、僕が好きな作品とは僕のそのフィルター、自己を解き明かすヒントになるものだ。

それが僕の作品の楽しみ方。だから良いも悪いもそれを楽しいと思えるフィルターを持っているのが僕であり、それこそが自己ということと言えよう。


これでまた一つ僕のフィルターの謎を解き明かした。つまりそのヒントとなった「まとまらない人」は好きだ。まだ全部読んでないけど。


11/24追記:読了。最後まで頷きが止まらなかった。やはりこの人は天才なのだと思うし、アキンドくんが居るのめっちゃ羨ましい。

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