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人生の後半戦パート4

ラジオパーソナリティーとして
デビュー‼️
がアシスタントからの予定が
なんと1人でやることになるという
めちゃくちゃピンチというか
頭パニックでした。

話すの得意でも
当時はめちゃくちゃ好きだから
始めたわけではなく
【未来を見据えて、話すプロに
なりたい、ラジオで話せるように
なり、多くの人をゲストに招いて
トークしたい】その想いから
始めていたので

全てがいきなりすぎて、
びっくりでした。

さぁ、そんなことを言っても
生放送
時間になったらオンエアー

さぁ、その時は来ました。

15時からの番組が始まりました。
CMまでは8分の枠を話したり、
音楽を流して進行をしていきます。

話しを始めましたが
なんと2分ぐらいで考えてきたことを
話しきってしまった川村

もう、言葉が出てこない状態
ラジオは3秒以上無音の状態が
ダメというルールがあります。

もちろん、バックミュージックが
あれば無音ではないのでいいのですが
もちろん、そんなこともその時は
知らないし、そんなことも考えられ
ないぐらいテンパっていました。

『どうしよう〜⁉️』
そんな時にPAの方が
『無理なら音楽を流していくよ』って
神の声をかけていただき
その対応をしていただき、なんとか
最初の枠を乗り切りました。

それからも
2〜4分を話して、音楽という流れで
初回の放送をなんとかなんとか
変な汗がどれだけ出たんだろうと
思うぐらいの状態で放送を終えることが
出来ました。

原稿読み、天気予報を話すなど
こんなことも始めてのことで
もちろんボロボロの状態でした。

ほろ苦いというか
地獄のような初回放送でした。

でも、辞めたいという気持ちは
全くなく
やはり夢というか想いは
あるので、続けて上手くなって
いく決意だけは変わっていませんでした。

毎週火曜日の2時間番組
初回の1ヶ月は自分1人でやりました。

原稿読み、天気予報
本編2時間近くをまずは
1人で話したり、時間配分に
慣れていくこと

でも
『次の月にはゲストを呼ぶ』という
目標は立てていたので
そのために高い意識を持ちながら
取り組んでいきました。

2〜4分話して、音楽は鉄板に
しながら
毎回毎回コツを掴んでくるので
話す時間も伸ばしながら

【自分を毎週毎週越えていく】
ようにはしていたなって懐かしいです。

そして、2ヶ月目からは
1人しゃべりではなく
ゲストトークを大目に組み込む
構成にしていきました。

1人しゃべりよりもちろん
難しい挑戦

15時の番組なので
12時ごろからゲスト様には
犬山に来ていただき
2時間近くは打ち合わせをすることを
しました。
それが3年間、続けていました。

ゲストが居なくても
アシスタントさんに
来ていただいて居たので
必ずその時間を大切にしていました。

【ここが川村の原点
深く人の話しを聴く、人生や価値観、
どんな仕事でどんな経緯や想いで
やっているのか⁉️】

今のラジオでも
人と話す時にも意識しています❣️

そして
2ヶ月目での初ゲスト
お祭りで日本を盛り上げていきたいと
活動している兄弟
忘れもしない初ゲスト

もちろん仲間だし
わかっているつもりでしたが
2時間の打ち合わせが安心材料に
なり
初めての試みでしたが
すごく上手く出来ました。

そこから
3年パーソナリティーを務めて
計100人近くに及ぶゲストトークを
してきました。

番組も130回を数えて
自分のけじめと局の不祥事も
明るみに出る前のタイミングで
一旦マイクを置きました。

でも
3年間やりきっての振り返りは
【話すことの奥深さが知れた】
【聴くことや質問の質が
話しを左右すること】を身を持って
体感できたこと

そして
【自分の声と存在が大好きに
なれました❤️】
川村は自分の声が大嫌いでした。
歌も下手くそ
自分の声が低いし
聞き取りにくい声
滑舌も悪い
そんな風に自分でダメ出しを
していました。

でも
ラジオをやってから
2年近く
『川村さんの声って素敵ですね』
『じゃんさんの声に癒される』
『じゃんさんと話すと楽しい』

自分では予想もつかない所か
ありえない声をたくさん
いただいていましたが

尽く
否定してきました。

『俺の声のどこがいいんだろう⁉️』
『たまたま言われている』
『俺と話して楽しい⁉️』

そんなことが自分の中で
2年間想い続けていましたが
本当にずっと褒めていただけました。

そして
自分の中で変化がありました。

『こんなに言われるなら
自分でも信じてみよう』
ちょうど2年が経つ頃に思いました。

そして
そこからの
ラジオパーソナリティーでの
活動がもっと楽しくなっていきました。

そこから
イベントの司会をやったり

自分で音楽イベントを主催したり
していきました。

自分への自信
それは仲間から人から
氣づかされた自分ではわからなかった
所からの自信💕

だから
今でもラジオパーソナリティーを
やっていますし

今では
【世界一の声】だと思っています。
あれだけ抵抗していた自分が
嘘みたいです。

でも
ラジオを辞めて
カイロプラクティックの方はという
とかなり疎かになっていました。

仲間から世間のイメージが
【じゃん川村は
ラジオパーソナリティー⁉️】
そうなっていました。

なので
カイロプラクティックの方は
かなり細々とやっていたのが
実際で
結構、危機的ではありました。

ドリプラというプレゼンの大会に
出ても
語っていることと現実のギャップ

良かれと思って入った団体も
見た目だけがいい格好で
中身はあれって思うことばかり

そして
その団体での精神的ストレスが
爆発するのと
金銭的な部分の限界が重なって

川村は
世の中的には鬱状態
精神が完全に壊れていました。

奥さんも子どももいる中でしたが
自分を保つことができなくなって
いました。

何ヶ月も自分ではない状態が
続いていました。

カイロプラクティックは
もちろん
何も出来ない状態が続いて

もちろん
現実は時間が動いているので
一番大切な存在が守れない状態

奥さんの親御さんもその状態を
見かねて
結果、離婚をすることになりました。

自分の不甲斐なさ
自分のやりたいことだけを
優先してきたバチでもあるなと
感じていました。

住んでいた犬山から
家族が離ればなれになりました。
めちゃくちゃ悔しいけど
どうにもならない状態

川村は名古屋で1人で暮らしながら
再出発をすることにしました。

もう、後悔と悔しさ
自分のすべての選択を
責めた日々でした。

少し回復してから
正社員で働き始めましたが
可愛い息子とも居られないむなしさ

大好きだった奥さんとも離れて
いる辛さ

もう、生きる意味もわからない
状態でした。
でも2人には逢える状況は
2人が作ってくれていました。

たまに来てくれたり
連絡は取れる状態

それだけが救いでした。
なんとか働きながら
普通に戻るまでには半年以上の
時間が必要でした。

そこで川村の気持ちを
作ってくれていたのが
【Facebookの仲間の投稿】でした。

もう、ここは暗黒であり
めちゃくちゃたくさんの方々に
迷惑をかけた時期でした。

カイロプラクティックも出来ない
家族とも別れる
すべての活動を止めた時期

だからこそ
家族のありがたさ、自分とは⁉️、
失敗をどう活かしていくのか⁉️

これからの行く先は⁉️

Facebookを見ながら
自分がどう変わっていったのか⁉️

また、描いていきます。

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