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生きてるだけで価値があるかないか。茶色の朝なのか、虹色なのか。

以前の記事で学歴エリートの息子が、学歴エリートではなく人として尊敬出来る子だから自慢の息子だという様な記事を書きましたが、その事を後々自分で考察しました。

世間ではやはり東大といえば"すごいねー!"と言われます。

私は全く教育ママではなく、どちらかというと「子どもたちのやりたい様に任せてきた」放任ママなので、知り合いの中にはずいぶん驚いていた人もいて「へぇっ!?お宅みたいな家庭から東大?」と明らかにディスりやなと思う反応もありました笑笑

東大に行ける家庭の定義ってなんなんやろね。

そんな反応を見聞きしていると、人間社会って偏ってるよなぁと感じる。たまたま備わった数理と言語スマートな息子だったから、"東大ママのハウツー"がなくても本人が努力して得た結果だと思う。

「うちの娘!ものすごく優しくて思いやりがあるんだよー!」とどれほど叫んでも「そうなんやねぇ、親孝行な娘さんやね」とは言われても、「す!すごいね!」とはならない。

アカデミックな知識人がよく話題にする「学力」って、よく聞いてたら結局のところ偏差値に結びつく学力な事が多い。私はイエナプランでガードナーの8つのマルチプルインテリジェンスの概念を知ってから、価値観のノロイが解かれたのでいつも違和感を感じてしまう…あーまだそんな感じの議論なんだなぁ…って。

学歴は隠れ蓑

今夜仲間たちとやり取りしてて、「学歴は武器と思えば闘いになり、学歴は自分の隠れ蓑なんだ」と聞いた。

そうか…みんな怖いのか。何に対して??

究極、人は『生きてるだけで価値がある』という哲学的な価値観は、それなりの人生を歩めている人たちの議論で綺麗事に聞こえてしまうのは、地位とか学歴とか資格とか何もかも取っ払って、素の自分で人前に出られてるのか?ホンマか?って事なんだと思う。そんな人稀でしょ?

大体、「慶應卒」とか「早稲田卒」って書いてない?プロフに。

どん底や様々なマイノリティの当事者って、人生の辛酸舐めて来た…いつ死んでもおかしくないくらいに。だからこそシンプルに人として何が大切なのかが味わえるものなのかもしれない。

俗世間のノロイが解けたら


人間は共同体の中で生きる動物で、常に他者との関係性の中で人生を考えて生きている。だからその社会の価値観の器の中で考えてしまうし、その社会の中の他者と自分を常に無意識のうちに比較してしまうもの。

動物は他者との比較ではなく、自分が生き残れるかどうかだけ。まあ生き残るという意味で人間はやはりその社会で良しとされる能力を持っている事がアドバンテージにはなるからこそ、『あぁ、自分は生き残れるんだ。』とそれだけで安心するんだろうな。

学校では「私はあの子よりも勉強が出来る/出来ない。」

「あいつの方が自分よりも走りが早い人気者。」

「ボクは他の子と比べて何の取り柄もない。」

「元気に挨拶しろって言われるから、それが人として大切なことだ!」

明るく挨拶する人は◯!そんな事も出来ない自分はダメだetc...。

学校で基礎学習の学びと同時に色んな価値観の押し付けが始まる…先生からの、自分が今どこなのか、のフィードバックもなく、カテゴライズする為だけの学力テストで自己肯定感を削がれ、大して面白くない授業をしてるのを棚にあげた先生たちが選択の余地のない子どもたちをランク付ける。それをおかしな事だとは疑いもしない。

そして先生たちは管理職に、管理職は教育委員会からの圧に忖度する。そこに子どもたちを一人一人大切にするという視点は存在しているのか?

そんな偏った価値観の中で、それでも選択肢がなく学校に通う子どもたちは「生きてるだけで価値がある」と心底思えているのか?生きてるだけで価値があるなら何故学校の偏差値を気にするのか…。

毎日のタスクをこなさなければ叱られるのか…。

自分の下着の色や髪の長さをなぜ他人が勝手に決められるのか?

規律を守れ、元気に挨拶しろ、この仕事を実行しろ!継続しろ!創造力を養え!発信しろ、協力しろ、努力しろ!あーしろ、こーするな、

「わー💦うっせぇ!うっせぇ!」ってなりますわな。

ならなきゃおかしい。従順な人ばかりになればいつ茶色の朝が来てもおかしくないのかもしれない。

茶色の朝とは…約20年前にフランスで刊行されベストセラーとなった。「茶色以外のペットは処分するように」という法律を皮切りに、“俺”と友人シャルリーの身の回りで次々に「茶色」以外の存在が認められなくなっていく物語。

茶色の朝

日本の公教育に合わないと思うのは子どもたちの問題なの?公教育に合わせなきゃ日本では生き残れないの?生きてるだけで価値がある人生って、学校に通う子どもたちは心底思えているの?今の学校が合わない子どもたちの中で、オルタナティブスクールやフリースクールに通える一部の人たち以外は選択の余地はなく、引きこもるか無理して自分を殺しながら通学するしかない選択肢がないって事が本当に子どもたちのウェルビーングに繋がる?

どんな人も価値があると、誰もが思える社会は、本当に大人たちが人をカテゴライズしない、何が人として大切なのかを子どもたちに示してこそ、はじめて建設出来るものじゃないの?

そもそもなんで東大えらいの?

えらいの本質って何?

優しさってえらくないの?

言語能力高い人だけチヤホヤされて、黙って内省して自分の世界を持って社会を他の方法で問題提議してる人はチヤホヤされへんのはなんで?

みんな同じがええの?みんな違うのが人間らしい姿なんじゃない?

社会は色んな色がある方が自然なんじゃない?🌈

長文、かつ、支離滅裂になりましたが独り言です😅ちなみにイラストは小4の時の次女の落書きから拝借💖


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