シンワ5部〜意志無き神からの分離
〜第9プロセス[沈殿と同定]、知と観、二元論への分断
『沈殿』から見る世界
(この次元を理解するためには二重スリットを意識して読み進めたほうがいいのかも知れない…)
観測者問題のこれまでの解釈は観測することで振る舞いを変え、波の性質から粒子の性質に、というものだった。
が実際は、よりミクロな意識枠の存在者としての我々の意識が所有する認知が同定したのは量子性の中にある一つの振る舞いであり、実態の一つ側面でしかなかった。
マクロがミクロを観測しているつもりが、その実態はミクロがよりマクロを観測しているというあべこべな現象が起きていたのが由縁だった。
意識が現実を作っていたわけではない、
振動する『祖』粒子の一コマを捉えたという状態に近い、その瞬間に我々の可能な認知モデルだけが表現されているだけで、6次元分は認知不可で同時に震え続ける。
量子性の虚から吐き出される全ては常に見ているものの全てに既に表現されているがそれを解釈に含めきれていないだけである。
現実は無限にある、事実は無限にある、正確には何も決定されないまま、不知の世界を含め全てに自我があるように、それらが見たそれぞれの認知が膜に記される。
その訳も分からないまま、
その状態のままでいい、
その状態のまま
泡が形成された瞬間にまで遡って進んでいく。
このときからすでに量子的な動きが始まっていたのだろう。
素粒子が生まれる以前ではあるが既に存在しのは『量子性』。
あらゆる概念が励起する以前、
それらは混在し定義さえ生まれる前の時間軸、
まだ、一つの宇宙が概念を代謝させるトーラスを機能させる以前、
二元論における2つのスリットは果たして誰が観測しその概念の構造が構築されていったのだろうか…。
単純なベクトル的トーラスモデルとして始まったであろうその流動性はその動きと共に性質と概念とだけを同定させながらこの場まで発達する。
我々が認知するよりも遥かに大きな意味合いでの何者かの意識がそれを認知し、内部存在者がそれを同定させることでのみ、かりそめの定義は行われ二元論は存在しうる。
もちろん無いものをあるかのように言い回すことも
あるものを無いように言い回すことも可能なこの世界において存在するのはやはり考え方だけであった。
その意識自体が捉えた概念と考慮された概念に従いより質量を持った空間を形成していくことで、認知はいよいよ私物化され存在は存在としてのあり方を許されていく。
そうやって概念は概念の中に、性質は性質の中に、より軽いフラクタルを形成していく。
意志無き『カミ』の所在
泡内部に意識という大枠が発生した時点で、特定するための認知という概念だけは発生することはできる。
しかし、先ほども言ったようにその次元では物事の定義は一切行われない。
発現したが使用する必要がなかった概念なのか、
それともそれすら内部でのみ発生した概念なのか、
わからないが、後者が濃厚な気がする。
しかし、そういった次元の中でこそ、これまで語られる事のなかったカミは生まれた。
ここにおけるカミの特徴は我々が知る神と明確に違う。
意思を持たず、一切の定義も持たず、ただあるもの全てを、生まれてきたもの全てを代謝させ一つのエネルギーの流れへと組み込んでいく。
といううか、そもそもまだその細かな概念すら発生していなかった時代のシンテキカミノクウカン。
つまりはあらゆる物事が、そのままの純粋な物事として存在し、発生した善も悪も一切の評価もされず、大事にもされず、只々君臨し、循環と調和だけを只々見出し、常に膨大な膨大なエネルギーのみを発散させる。
これは呼吸と同じようなもので吸うことと吐くことと何ら変わりなく、生命を維持するための分離したひとつのひとつの機能であることと同一なのだ。
その2つの概念の連続がエネルギーを生み、生命を維持させていく、あれと全く同じことが起きている。
そう、その2つの異なる概念の連続が、エネルギーを作り上げ、機能することでさらに大枠の生命性に力を与え続けていた。
その後例えその内部に聖と魔が生まれたとして、善と悪とが生まれたとしてそれらが連関を持たず、それぞれの二項が連続の状態として流転する場を形成し
強さも弱さも含めあらゆる二元的な事柄が一切の関わりを持たない帯を形成する。
二元性は本来お互いが存在物として純粋に許された存在物として連続し、回転する事で秩序は創られる。
言うならば対極的に存在する事が許される空間としてモノとして符号的に二元性は存在するだけで、それにおける評価は、明らかに内部に発生した認知 を介して行われ続けていた。
実質右脳や、左脳の機能を損なったと仮定して、
その存在は存在物として存在は認めることが可能であるのだろうが、それが何であるか、どうであるかなどの評価的印象はそこでは発生しない。
存在は存在以上も以下もなく純粋な事物として存在する空間が本質的には存在する証拠で、評価は意志へとベクトルが発達した瞬間に発生した次元に生まれた補助的要因。
あらゆる『負の符号』について
悪意と悪は異なる、あらゆる負の符号に属するモノ
悪、魔、陰、負、下、女…。
(女の部分は、性という側面を含め宗教的歴史の事実を背景とする)
これらはそのままただの符号である。
意が介することで性質を纏う、つまりは性質という概念は【存在物と意によって詳細が『語られる』】
ということでもある。
このことから、通常存在するであろう悪という概念にしてみても、理屈から言えば想念を取り除くことは可能である。
存在として、事物として存在することが可能なその次元において、そこには意思も何も発生しない、する必要もなかった、あくまで必要としたのは内部沈殿者であった。
故に理屈上、理論上、そして体感として、見えたものとしてその次元の空間には、やはり些細な意志すら存在しなかった。
そこにあった意思らしきものと言えば生命性としての激しく迸る異常なエネルギーくらいなものだ。
その空間に生じる本質的悪は、純粋な存在として、要素として、ただの符号として存在し、聖もまた同じであり、意思や、意識を介入させず、
そのままに存在する次元があっただけだった。
符号に纏わりつこうとする意思のありか
その関係性を決定づけたのがいわゆる内部に生まれた意識であり、つまりはただ存在したのは双極性の概念とそれの所在を定義した側としての意識自体が存在する事になる。
つまりは二元論だと認知していたものは存在物だけであり、三元論目である『意識の介入』が行われることで発生した。
意識を通した時、それは二元論だと認知するが、
そもそも認知という意識内の事実こそが三元性目として存在し、その意識内に事実発生した意識体系、ないし精神性、ないし認識の指し示す空間が3つ目の元性なのである。
この時点での次元に発生した意識は既に精神としての枠組みを持ち、この次元で発生した純粋な聖と、純粋な悪と、それらは意思を介さず、その存在を当たり前のように許容した世界がここにおけるカミという空間であり、それは我々の見知らなかったカミの意識であるとも言える。
我々のこれまで扱ってきた神とは、これまで認知してきた意識の更に大枠の中にやっと発生した者であり
無意識的に既に認知によって取り込まれ形成されていったその精神の形のことをやはり神というのだ。
以降、その精神の形自体が変化し、あらゆる存在を定義された空間が発生し、そこに同定されたその定義自体が神となっていった。
精霊的奔放な選択性
精霊という言葉があるがこれは本来精神性の体系を指す、
性質としては『奔放さ』に含まれ、無邪気さという悪意?と気まぐれ的善意?
の中に存在する精神形態であり、意志と呼べる意志はない、『思う』くらいのニュアンスはあるが、『想い』ではそれは既になく、志しにもまだ届いてはいない。
それは少なくとも我々の知るレベルの次元で扱えるような形態ではなくその意識構造は理屈上我々の知る神以前である可能性が高い。
量子性がもたらす虚はあらゆる組み合わせを許し、
観を通し、我々はその中のどれかに捉えられ、一つのスリットの中で同定した神の世界がこの世界である。
我々の知る世界では二元論のパターンは固定化され、
いや、誘導的に固定化させられ、観続けてきたのである。
意識内部の認知の形態はこの知と観のコントラストの中で捉え続ける場を変化させていることになる。
この変化可能な奔放さ全体を取って実際には精霊に含まれているのかもしれない、
と言うことは我々も本来は精霊の一部であるとも言え、精霊の振る舞いの一部というわけでもある。
量子性の虚の空間
それぞれの輪が回転しながら、束ねられ、拗られ
一つの形状をなしたのがトーラスであり、
故にそこから生み出されるエネルギーは生命性を生み出すのである。
我々の知る神は志から発生し、やがてさらに強くなる意に呑まれそれを観させられた我々はそれぞれの世界に溺れていくのである。
しかし、その溺れた先に、溺れきった先に、
それがたとえ異なる項から辿ろうとも同じ答えにたどり着く瞬間というものは必ず訪れる。
突き詰めることで、異なる入口からのトンネルをたどり同じところに出る理由は量子性の虚の空間に触れるが故につながるのである。
本質的な、カミの想いに触れる瞬間と言ってもいいのかもしれない。
そこにはあらゆるものが許されるがゆえにであり、
(おそらくイシュタムもそこにいたものだろう)
想いの地盤はやはりあらゆる認識された世界を許そうとするのである。
それを臨もうと望むまいと、それも一切が関係ない、
その先に真理が求める世界があるが故に全ての意識は無駄にされることなく、捕食され代謝されていく。
我々の一つ一つの、それも悲運も全てそうあり続け、
カミが一人では体験できなかったコトを我々は肩代わりし続ける。
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