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エジプト文明

エジプト文明


紀元前3500年 異説により幅前5500年
神話における主神形態

まずエジプトの歴史を語る上で、まず前提として、抑えておくべきことがある、それは2人の太陽神。
ラーと、アメンこの二つの関係こそがエジプトの歴史の基盤だと思う。
前提として、ラーはヘリオポリスという宗教都市で古来から信仰されていた。
一方、アメンは地方の一部により信仰されてきた神で太陽神としているが、本来は大気の神『隠された者』の意味を持つ。
古代都市国家としてのちに現れるテーベ という都市で、アメンが最高神として繁栄を遂げる時代がやって来る、いつしかアメンとラーは同化しアメン・ラーと呼ばれるようになる。
栄華を極めたカルナック神殿ではアメンが最高神として、祀られる事は何ともといった感覚がある。

神のタイプには
人型、半獣半身、半虫半身がある

*(半身半獣型の存在は、おそらく文化的なことが考えられる、
それは性に対する現代と格差のある認識
富裕層のみが女性の選択権があったこの時代、
そうでない者たちは獣などと性行為を行う事があった、これは何もエジプトに限らず、世界中の、至る初文明に残っている、その文化圏内では半身半獣の神は見て取れる。)

*(なお、当時性に対する全ての行為は神聖視されていた、シンボルも含め、半身半獣の神の存在はおそらく、獣との行為すら、タブーではないという認識を作る上で重要な神の形態だったと思われる。)

*(半虫半身に関しては珍しくもあるが、世界のある地域には虫を神聖視する文化や、伝承がある。
エジプトにおいてはケプリなどのそう言ったものは神の眷属として、使役する力の象徴として描かれている。)

エジプトの歴史


● BC6000年〜BC3000 先史時代

(実はここ重要だと思う)、今のところ何のデータもない、探すの楽しみね!
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● BC3000〜BC2650 初王朝時代 


第一ファラオ、ネメス(ナルメル)
蠍の王の後継者とも言われている。
ハムナプトラで出て来る敵で出て来ました。
太陽暦の登場 

ヒエログリフ

文字に関して言えば、
もともとは一種類であったもののBC2700代頃から分岐している。
1.王族の使うヒエログリフ=聖刻文字
2.神官の使うヒエラテテック=神官文字に分かれる
なお二つがまた同化した、筆記体ヒエログリフが存在する。
ヒエログリフは歴史上禁止され、ギリシャ文字にとって変わる。
最後の記述は紀元後394としてあります。
ヒエラテテックの方は一般的な物になり、
デモティック文字として民衆文字となって行ったようです。

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ヒエログリフに関して、特徴的なこととしてあげられる事は、母音がない事のようですが、
特に気になっているのは、象形文字とその組み合わせによる、意味合いの変化、この手法は文字として扱うより、ものとしてデザイン性として意味合いを持たせた縄文土器の特徴と類似している。
また、扱われる動物の類似性として、やはり蛇は世界的に見て、神の使者として扱われ、フクロウは母、女性、妊娠として扱われる、よく、エジプトのフクロウを冥界的なものとして扱うが、それはオシリス信仰が源流であり第5王朝の時代からその認識は強くなる、フクロウが死にまつわるものとしてヒエログリフには登場するが、時代的思想からしたら、死よりも再生を経由し母体に変えることを意味しているかに思う。
その他の類似としてワニ、ネコなどが共通として挙げられる。

アビドス遺跡

冥府の神オシリス信仰の総本山

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ここに関しては、異界と繋がる場所として扱われており、その後の各王達も何らかの歴史的痕跡を残していった場所。
世界最古のビール工場もあり、嘔吐している壁画もあるようです。
また、一時期物議を醸した、ヘリコプターとかミサイルのヒエログリフが見つかったのもこの地、まぁ真偽はわかりませんが…。
そして一番気になっているのは4つ目の画像ですがアビドスにあるフラワー・オブ・ライフです
最も奇妙な特徴は、それが花崗岩に刻まれたものでなく、花崗岩に驚くべき精度で焼き付けたか、何らかの方法で描かれているとし、放射性炭素年代測定でもこの時代では無いかといわれている、まぁ例によって一部の層では批判はあるようですが…。まぁでも面白いのは、この年代近辺のいろんな遺跡に、この神聖幾何学のモチーフが使用されてるのは実に興味深いものだと思います。


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● BC2650〜BC2180 古王朝時代

ジェセル王
初の階段ピラミッド、宰相イムホテップ
宗教都市ヘリオポリスで太陽神ラーの信仰が強くなる。

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その後2つの屈折ピラミッドが作られる

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BC2550クフ王 第1(大)ピラミッド
カフラー王 第2ピラミッド
メンカウラー 第3ピラミッド

(あくまでも歴史上の話で、諸説はありますよね。)

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ピラミッド 


世界に残る巨石遺産の一つ
最大はクフ王のピラミッド
1片が下段150㎝、上段50㎝
平均重量2.5トン規模
201段合計230万個の石灰岩からなる


一部では文明が起こった時期にはすでに存在していたとも言われ、12000年前だという証言もあり、
スフィンクスに至ってはほぼ謎しか残っていない状態で、何の決定打も無い中、時代と共に異説が浮上し、製造年代を遡ることになり、今や、10500年という年代が浮上しています。
ピラミッドは公には今から4500年前であるとされている。
内部構造、5つの間が現在までに見つかっており、高さ8メートルもの空間の通路も存在する。

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地下という世界に何か思い入れがあるためか、
エジプトの至る所に地下への通路が残っていたり、地下内部にひらけた空間がある遺跡がいくつもある。

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この構造は一部では脳内の松果体の位置を示しているとも言われ、
最近の研究結果では電磁的エネルギーを増幅し地下に放出する仕組みになっているとも言われている。
まぁなんとも耳を疑うような話ではあるが、
ソロモン王の墓所、カッパドキア、我が日本、シャンバラや、クトゥルフ神話など様々な、遺跡伝承など地下世界の事は多く語られているが、その感覚からすればこの『地下へ』という認識はもっぱら珍しくもない。

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また石と石のつなぎ目の精巧さは異常な技術とも言われ、ピラミッドが未だ謎に包まれる理由の一つ。
よくロストテクノロジーとも言われ、高度文明説、宇宙人由来説などと言われる所以である。

ローマンセメントと呼ばれるパンテオンで使用された高品質のセメントもロストテクノロジーとされているが、このピラミッドのセメントはそれより高純度で時代も遥か遡る。

また、自然な石の塊から造られたのではなく、ジオポリマー石灰石コンクリートの一種である人造石で作られたという研究結果まである。
ちなみに石のサイズも使用される場所によっては一つ60トン以上のものまである。

主要な場所に使われる石の断面もまるでレーザーカッターで切ったかのように滑らかな断面。

頂上のキャップストーンは保管されているものの、昔は全方位化粧石で覆われていた、太陽の光が反射して今とは比べ物にならないほど、神々しい外観だったそうだが、違法にも関わらずカイロの市街地の発展に伴い、剥ぎ取られていった。

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カイロでは今でも化粧石で飾られた白光りする建物が多くある。

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綺麗ですね、カイロは世界遺産にも認定されていますが、こうやって見るとピラミッドの恩恵は相当のものですね。

形についても
完全な四角錐では無く、一つの断面の中心が窪む8角形構造、秋分春分に影ができる作りで、ククルカン同様の思想体系を持つ

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使用された比率
1.黄金比、高さと幅=1:1.618
2.π、4つの周の長さ/2倍の高さ=3.14
3.フィボナッチ数列

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オリオン座
これ今じゃ有名な話となりましたが
オリオンの三つ星の大きさに合わせて、ピラミッドの大、中、小、ないし、ナイルと天の川。

そしてピラミッド内部の部屋からは特定の星が見えるような設計になっているようです。

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一番最近の発見では新しい空間の発見が挙げられる。

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上記の従来存在していた空間に加えて下記の場所の空間。
これは初めネイチャーでの掲載で知った。
3つのミューオン観測装置を用いた観測。
ミューオンとは宇宙空間から降り注ぐ素粒子であり、それをレントゲンのように観測したようだ。
学者達は否定的なものもいるようだが、結論から言えばピラミッドは未だ完全な解明には至らないという事だ。


サッカラのマスタバ墳墓

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この時代徐々に王権として、衰退していく、墓地も規模を小さくしていき、王以外の権力者も固有の墓地を持つようになる。
(死後の居住地として貯蔵庫、偽の扉、祭壇部屋などいろいろなものが準備される。
神の腰掛けの意味を持つ)

第五王朝時代BC2490頃
太陽信仰に対する概念が加速し、王の再生を強く意識する動きが強くなり。
最初の太陽神崇拝の地、太陽神殿が作られる。
今では痕跡のみとなっている。セットでオベリスクの存在があるが今では痕跡として残るのはこの台座のみとなった。

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第五王朝最後のウナス王
クフ王が最大のものを作るまでに6個のピラミッドが作られたがギザの3代をピークに衰退が始まるが、その代わり現れたテキスト。

初のピラミッドテキストが形成される。
つまりは呪文である。

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これはかなり重要な点、それまであった星に対する信仰が徐々に切り変わるタイミングでもあった。
神話、伝承、天文、地理、歴史、儀式、魔術、道徳などを通し、それは物語られている。
冥府の神オシリスに対する信仰や、太陽神ラーに対する認識の変化が描かれている。
いい例として『食人呪文』がある。
これは人が喰らうニュアンスで、何をか?
神を喰らい、霊力を得、神をも超越しようという、エゴが現れ出した事をも意味する。
その後、王朝は衰退、内紛の時代がやって来る。
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● BC2040〜BC1785 中王国時代

テーベの王が上下のエジプトを統一した事でこの時代から徐々にテーベでのアメン信仰の影響が大きくなっていく。

後期になるとアジアとの交易があり、その流れから「異国の支配者達」の異名を持つヒクソスと呼ばれる雑多な集団が入り込むようになるが、シリアから傭兵として連れてこられたという説もある。
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● BC1730〜BC1570 第二中王国時代


ヒクソス

その後アジアの遊牧民、ヒクソスの侵攻により
エジプト初の移民王朝が出来上がる。

彼らは高い軍事力を持ち、騎馬、戦車を持ち込んだ。
そんな彼らが入り込むようになったのは、ヒッタイトの進行により彼らの地を追われたからでは無いかとされている。
またこれを機にエジプトでは西アジアとの国際的交易が発展し、争いは徐々に近代化していく。

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● BC1570〜BC1070 新王国時代

この頃ヒクソスは追放され、エジプト王朝は再統一される。
ヒクソスはエジプトから追われ、パレスティナに逃れたが、3年後に最後の拠点シャルヘンも陥落し、滅亡。

その後
古代都市国家テーベとして繁栄を始める。
複合都市の建造は中王国時代からのものであるが、新王国時代から、宗教と政治と文化の中心地となっていく。

ラーと合一化、『アメン・ラー』の出現


同時期、トトメス3世の時代ヌビア、アジアへ遠征、エジプト最大領土となり、絶頂期を迎える

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BC1365 アマルナ改革

この時期神官たちの勢力が大きくなり、王権を脅かすようになる。
アメンホテプ4世は自らをイクナートンと呼びアメン神に替わる唯一神アテン神(太陽の発する光の神)を信仰し、新たにテーベからテル=エル=アマルナに都を作った。
実際にはイクナートンは政権を神官から奪還する為宗教改革を行おうとしていた。
アジアへの遠征の影響もあり、新たな美術体系が生まれる。

また他国との交流などもなされ382枚の外交文書『アマルナ文書』と呼ばれる粘土板が発見されている。
『アマルナ改革』この時代イクナートンの行った改革、アマルナ美術など新しい芸術などが生まれた、アテンの光は全てを照らす、その特徴通り、よりリアルな、作品などが多く作られた。
しかしアテン信仰は宮中の一部にだけ広められた為、庶民に受け入れられず、イクナートンの死後アテン信仰は無くなり、アマルナ美術は破壊、遺棄され衰退する。

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上からネフェルティティ、粘土板、エジプトのプリンセス、イクナートン、アテンとその崇拝者

BC1350
ツタンカーメン即位
アテン信仰からアメン・ラーの信仰に
17歳でこの世を去る
一説では、イクナートンの正妻ネフェルティティとの間に男子が生まれず、その他の妻(キヤ)との子では無いかとされていたが、昨今のDNA鑑定でこれは否定された。
アメン神を信仰する神官達の権力奪還は過激さを増し、イクナートンに関するものは、文化財も含め多く破壊された。
少年王は、初めアテン信仰を引き継いだのにアメン信仰に変わった事から、彼もまた、大人達の権力闘争のもと利用され殺されたのでは無いかと推測されている。

BC1276
ラムセス2世
ヒッタイトを破り、世界初の国際条約を結ぶ
テーベ には、『生者の世界』としてカルナック神殿、ルクソール神殿があり、慰霊の町として『死者の世界』が存在し、多くの遺跡が存在する。
新王国時代から建設が始まった、カルナック神殿らはこの時代に、盛んに造園される事となった。

アメン神殿(カルナック神殿)

『生者の世界』

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アホほど広いここ!

大気の神アメン神に捧げる神殿
政治的祭事、王の居住地、学問の場、
入り口にはファラオの顔を持つスフィンクスと、羊の頭を持つアメン神が並ぶ

石柱の形はシンボルを連想させる形をしていて、繁栄を意味する。

この大きな神殿は、歴代の王により、格塔門を含め次々と造園していった、例えば権威の象徴の為自らの彫像を建てる王もいれば、神に対する忠誠の為に、神様の神殿を建てる王もいたり、国外に遠征に行って、勝利した壁画を遺す王もいたり、石の柱、石の壁には様々な歴史的碑文が残されている。

いわゆるカルナック神殿自体が歴代ファラオの歴史書のような意味合いとなっている。


ルクソール神殿


(アメンの妻ムートの神殿)『生者の世界』

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カルナック神殿とスフィンクスの参道により繋がれる
別名 「南のハーレム」
ナイルの増水期、アメン神が妻のム–ト神と過ごす「オペト祭」のために作られた。
 オペト祭は、カルナックからルクソールに2神の子、コンスを含めた三体の石像を運び、
そこから10日〜1ヶ月ほど祭が続く
庶民に供物が振る舞われ、女性達が毎晩踊っていた。

『死者の世界』

新王国時代の歴代の王の墳墓としてテーベ の近くに王家の谷、王妃の谷などが建設される。

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アブシンベル神殿

10月22日、2月22日、年に2回
神殿の壁と冥界の神プタハを除いた3体を照らす。

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 BC1275モーセの出エジプト

ヘブライ人を連れて『約束の地』カナンを目指す。


旧約聖書、第二の書、『出エジプト紀』の舞台
宗教的意味合いのエクソダスとは俗に出エジプトをさす。
そもそもヘブライ人という言い方は、渡り歩く人を意味し、彼らは、自らの事をヘブライ人などとは言わないわけだが、どうやらヒクソスがエジプトでの政権を手に入れた時代に、モーセの父ヨセフは、エジプトの高官となっていると『創世記』には記されている。
政権がファラオ達に変わる時代、イスラエル人達は奴隷として扱われていた。
モーセはファラオの養子として扱われていた、しかし、次期のファラオの時代モーセがヘブライ人である事が判明する。
当時の流れとして、奴隷としてヘブライ人は300万人を超えていた。
自らを神とするファラオと、神そのものを信じるイスラエルの民は相容れず、それを脅威としたラムセスは新しく生まれて来るイスラエル人を虐殺するよう命じる。
モーセ自身、イスラエル人を助ける際、謝ってエジプト人を殺してしまった事もあり、身を追われ、ミディアン地方へ隠れ住む。
その地で神の啓示を受け、イスラエル人を帰還させるよう命じられる。
モーセは兄アロンと共にファラオにイスラエルの民を帰還させてもらえるよう頼みにいった。

『アロンの杖』

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この時、神の名によるものかの審議のためアロンの杖を蛇に変えれるかの問答があった、杖を蛇に変え、他の蛇を食べ、賭けには勝ったが、その頼みは聞き入られることはなかった。

神は心変わりをさせるため、10の災いをエジプトにもたらした。
ナイルの水は血に染まり、害虫が繁殖し、疫病が流行り、雹を降らせ、イナゴが大量発生し、3日間の暗闇が訪れた。
しかしファラオは心を変えることはなく、ついにエジプト全土を災いがおそい、エジプト人、家畜など全ての長子に死がもたらされ、エジプトを出ていく事を認めた。
しかし、出エジプトの際心変わりしたファラオは、追手を放ち、あの有名な海を割るエピソードでエジプトの兵は壊滅した事になっている。

その後カナンに辿り着くまで40年の時間を有し、その道中、神や、モーセを信じぬもの、不平不満を漏らすものに神は怒り、永劫彷徨う事を運命づけだとなっている。
またモーセ自身も一度神に背いたため、カナンへと辿り着くことはなかった。

なお敵対したファラオはラムセス2世だったのではとされている。

*モーセはたびたび光の角が生えた姿で描かれている、それと何らかの関係があるのかないのかわからないが、このモーセという人の逸話には、よくわからないエピソードが存在する。

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神殺しの側面もある、彼により撲殺された天使にサマエル、ケムエル、アフ、ヘマーが存在する、このような力まで有していた事と、角には何らかの意味合いが隠されているのかもしれない。

BC1200『海の民』

ヒッタイトを滅ぼした海の民がエジプトに侵入、壊滅的な打撃を受けるもののラムセス3世の時代にこれを撃退したとされている。

リビア人の移住〜エジプト南部では再びリビア人の移民が激しくなったがラムセス3世はこれを嫌い、2175人を殺害、2052人を捕虜とした。
しかしこれが仇となった、捕虜となったもの達はナイルデルタ地区に定住、高い文化を持っていたため、影響力を持ち、その後エジプトでの政権を手に入れることとなった。


エジプト北部のテーベではラムセスの配下として、徴税を行なっていた、ラメセスナクトという人物がアメン神殿の大神官として任命され、その後司祭の権力が再び強くなる。

この時代、王家の谷の職人達による、食糧難を原因としたストライキが行われた。

更に極め付けは、これには多くの人が関与している。
首謀者は、妻と息子、侍従長、王室の執事7人名、宝物庫の監督者2名、軍隊の将軍名、王室の書記2名、伝令官1名、最低でも16名が暗殺に加わっていた。

凄惨な暗殺だった事がその後の研究からわかるのだが、事件に関与したもの、32名がその年に処刑にあっている。
その後の政権の移動から司祭達による陰謀だった事が考えられる。
ラムセス4世が王位を継承したが、そのまま衰退していった。

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●BC1070〜BC750 第3中間期


BC1072
北は神官の収める国、南はリビア人(アラブ系)の収める国として存在し、協力関係は保たれていた、がそのうち内政は乱れ多くの王が乱立するようになる。
ピアンキというヌビア系の王が統一する、いずれの王もエジプトの文化を尊重し、エジプトの王として振る舞っていた、が長くは続かなかった。

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●BC750〜BC305 末期王朝時代

BC673 アッシリアの征服

この頃ギリシャから傭兵が連れてこられ、エジプトの文化はギリシャに伝えられた。
BC 525ゾロアスター教を信仰するアケメネス朝ペルシャに支配されだが、他の宗教に寛容であった為、エジプトの宗教体系は崩れることはなかった。
この時ペルシャ帝国の支配はオリエント全土に及んだ。


BC332アレクサンダー大王の統治

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ペルシャを征服する事でエジプトの統治権を得、ギリシャ文明、エジプトのオリエント文明を融合させたヘレニズム文化が生まれる。
差別的なものの見方として、程度の高いギリシャの文明と低いオリエントの文明からこれは折衷としてヘレニズムはあったのではという意見もあるが、プトレマイオス自体が、ギリシャより、オリエントの文化に傾倒していったことは、自らがファラオとして振る舞ったことから見て取れる。
この折衷という発想自体後の差別的視点が強かった可能性が考えられる。
現にヘレニズムの代表作として挙げられる、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケなど大理石の彫刻品が多く、ギリシャ文化でやたらめったら露出が多かった彫刻は、なりを潜めるようになった事は大きく、思想の方向転換があった事は間違い無く、後のローマ芸術の大きな礎になったとも考えられる。
哲学的にもストア派やエピクロス派などが出てきた時代背景から考えても、様々な文化形態に寛容になっていったのには明白で、この寛容性は以前のペルシャのキュロスが諸民族の解放と、弾圧や圧政を敬遠する流れの影響が見て取れる、また宗教的寛容性にはゾロアスターの影響も考えられる。

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余談、(サモトラケのニケをルーブルで生で見た事がある。正直このニケが飾られてる空間はあまりにも異質だった、異常な程神聖な空気を感じたのを覚えている、よくわからないがとにかく写真とは違った、ルーブルでの印象はほとんどニケに持っていかれたと言っても過言ではない。まーこれは好きだからはっつけただけで特に意味合いはありません。)

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●プトレマイオス朝時代BC305〜BC30


アレクサンドロス大王の死後、マケドニアの将軍プトレマイオス1世が引き継いでエジプトを支配し王朝を築く、エジプト王家の支配は終わりを迎える。
また同王朝はエジプトを足掛かりに300年続き、広い私有地を獲得していく。

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ムセイオン(BC290)


 Museion 、ミュージアム Museum の語源
学術、芸術の神9人の中の1人ムーサ(ギリシャ神話)にちなむ、英(ミューズ)
本館「王立研究所」責任者、国王任の神官
オリエント各地の資料を収集
数学、医学、物理学、自然科学、地理、歴史、哲学、文学、演劇、宗教などの研究の場
別館、大図書館ビブリオテケ
館長は国王任命の名誉な事であり、初代ゼノドトス、アポロニウスエラストテネスなどがいる

プトレマイオス、アレクサンドロスともにアリストテレスに学び、様々な学問に理解が深く、
各地から研究者を招いて自然や人文の研究を推進。
*エラトステネス
地球の大きさを観測、素数に関する『エラトステネス の篩』などがある
*アルキメデス
理学と力学の研究。「アルキメデスの原理」
*エウクレイデス(ユークリッド)『幾何学原論』
*アリスタルコス
地球球体説・地動説、太陽を中心に自転しながら回転していると主張、受け入れられず後2世のプトレマイオスによって天動説が主流となる

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ロゼッタ=ストーン
BC196年プトレマイオス5世業績の石碑
ナポレオン、エジプト遠征(1978)時、アレクサンドリアの近くで発見
ヒエログリフ、デモティック、ギリシア文字の表記あり。
ヒエログリフの解読のきっかけ。

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プトレマイオス朝の大きな特徴として近親婚による、政権保持、近親者内での政権争い、エジプト原住民の反乱、隣国の強国ローマの支援、ローマ自体の支配権の変動の影響なども相まって、国内の権力争いは熾烈を極める。

BC80年頃、ポンペイウス、クラッスス、カエサルによる三頭政治の流れでカエサルの進軍はエジプトに達する。

BC49クレオパトラ7世


●ローマ帝国の支配 BC30~AD395




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