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UWFを紐解く

現在のMMAの礎を築いたUWF。

前田が「総合格闘技を食えるようにしたのは俺」と語っているが、あながち間違っていない。

UWFを紐解くと、その偉大な功績が見えてくる。

UWFを紐解いてみたい。

UWF

UWFは既存のプロレスのような相手選手をロープに投げて戻ってきたところにドロップキックを決める、あるいはカウント2で跳ね返すといったお決まりのパターンを一切排除し、蹴りや関節技といった格闘技色を強く打ち出していった団体だ。

現在のMMAの源流と言える。

ちなみに、それまでは総合格闘技と言われていたが、海外ではMMA(Mixed martial arts)と呼ばれていて、それをはっきりとMMAと口に出しそして日本にMMAという言葉を定着させたのは青木真也だ。

その瞬間を今でもはっきりと覚えている。

そこから一気にみんながMMAと呼ぶようになっていった。

UWFの話しであるにも関わらず、図らずも青木真也が出てきてしまうあたり、彼の功績がいかに大きいかがわかる。

青木真也もまた不世出の天才なのだ。

プロレスからUWFへ

UWFが出るまでは、アントニオ猪木の独壇場だった。

ボクシングのモハメドアリや極真空手のウィリーウィリアム・柔道のウィリアムルスカらと異種格闘技戦をやって、プロレスが一番強いということを証明し続けて自身の価値を高めていた。

しかし、一方でスポンサーの提供が流れ始めるエンディングの20時50分過ぎに猪木の延髄蹴りで勝負がつくというお決まりのパターンが存在していて、プロレスというものを疑問視する声も少なくなかったが、100キロ以上のカラダで飛んだり跳ねたりし、相手の技をわざと受けるという行為自体が屈強で桁外れの特訓がなされていなければできるはずもないことは周知の事実として存在していたので、鋼の肉体は否応なしに最強の幻想を抱かせた。

ケンカになったら相撲最強説という幻想もあったが相撲界が実際にそういう場面に出ることはないので、制約の少ないプロレスはより現実的と考えられていた。

後にプライドやRIZINに相撲界から転身してくるものが出てきてはいるが、大成したものは一人もいない。

唯一戦闘竜が相撲のポテンシャルを感じさせてはくれたが、今では相撲界からMMAに転身することに期待を寄せるものはほとんどいない。

話しを戻す。

プロレスの会場で最前列で見ているファンはこれまた否応無しにプロレスに「参加」させられる場外乱闘も幻想を抱かせる役割を果たしていると言える。

巨体がパイプ椅子で相手をバンバン叩きのめして客席で暴れるのだ。

この恐怖体験は効果覿面。

鋼の肉体に非現実的なショー的要素も相まってプロレスラーは強いという幻想を更に昇華させているのだ。

実際、パイプ椅子攻撃をしたら倒れるMMA選手はいると考えられる。

そのくらい、プロレスラーは受け身を練習しているのだ。

強さの上位にいたプロレスだが、同じプロレスを源流に持つ新しいプロレススタイルのUWFの出現によって勢力図は塗り替えられていくことになる。

UWFもプロレスではあるが、彼らの目指していたものはシンプルに強さを追求した格闘技要素の強いものだった。

飛んだり跳ねたりや場外乱闘といったショー的要素を一切排除し、いかにして極めるかに集中した闘いを見せた。

つまり、最短で仕留めることに特化したより実践的な闘いを目指したのだ。

例えば喧嘩で相手の攻撃をわざと受けたり一緒に倒れて休んでみたりといったことはない。

そういった意味で従来のプロレスは実践的とはほど遠い。

地味とも言える関節技の取り合いだが、ロープエスケープやギブアップが頻発する真剣勝負の闘い方というもの目の当たりにし、それを咀嚼するために固唾を呑んで見守り、また見ているファンも選手同様に乗り遅れまいとチキンウィングフェイスロックやアキレス腱固めなどの関節技を勉強し真似をした。

一方、うってかわってスタンドでの攻防はダイナミックそのもので、空手やムエタイを彷彿とさせる本格的な蹴りと骨法仕込みの掌打でダウンやKOを奪っていく打撃戦は従来のプロレスにはないスタイルで、手に汗握る闘いが繰り広げられた。

「とは言ってもUWFも所詮はプロレス、ストーリーの決まっているショーに過ぎない」という向きもあったが、ファンはアンチの声はどこ吹く風で従来のプロレスに見られるような無駄が排除された真剣勝負に熱狂した。

更に、プロレス雑誌ではなく格闘技雑誌にUWFが掲載されるようになっていったことも、真剣勝負であることを裏付けるようなカタチとなり、勢いは増していくばかりであった。

第一次UWFではアントニオ猪木に代表される所謂メインイベンター級の選手と言われる人材がいない中で方向性を模索している段階ではあったが、従来のプロレスに対するアンチテーゼを掲げた闘いがそこにはあり、前田日明と佐山聡が時代を切り開いていく姿にファンは同調した。

そして、ここで若手はメキメキと実力をつけていった。

しかし、世間を震撼させた「豊田商事事件」の「豊田商事」がUWFのスポンサーだったため、この事件をきっかけにテレビでの放映が打ち切られ、資金繰りが悪化。

佐山は脱退し、シューティング(後の修斗)を立ち上げる。

ここで、UWF勢は新日本プロレスに出戻ることになる。

前田が時代の寵児へ

そこで、第一次UWFとは何だったのかを確認するために(新日本に)来たと宣言した通り、新日本の従来のプロレスに順応することなくあくまでUWFのスタイルを貫いた闘いを見せた。

相手を戦意喪失させ地上波放送がお蔵入りとなったアンドレザジャインアントとの一戦や、ドン中矢ニールセンとの異種格闘技戦、長州を骨折させた顔面蹴りなど、神格化されていくかのようにどんどんオーラを纏っていった前田は、いつまでもアントニオ猪木が頂点に君臨する旧態依然の新日本プロレスにことごとく噛み付いていった。

「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか」

こう言い放った前田の姿にファンは熱狂した。

当時の会社員では上に噛み付くなどは到底できることではない行為だったので、前田の言動にファンは陶酔し、彼に全てを託したのだ。

時代を変えることができるのは前田しかいない、と。

そして、時代が変わる時が来たのだ、と。

しかし、新日本プロレスは新しい時代が来ることを拒んだ。

アントニオ猪木至上主義の体制を守ることに徹したのだ。

職種は違えど、組織というものはどこも同じなのだ。

その答えとして、新日本は前田との契約解除を発表した。

そして、ここから第二次UWFがスタートする。

新日本との闘いでUWFスタイルに魅了されたファンは、第二次UWFに付いていった。

前田の「選ばれし者の恍惚と不安、2つ我あり」という言葉をこぞってマスコミは報じた。

当時の僕にはまだ理解することはできなかったが、このメッセージは強烈に印象に残っている。

第二次UWFのブームは東京ドーム大会を開催するにまで大きくなり、6万人の観衆を集め大成功を収めた。

今、東京ドームにこれだけの人を集められるほどの求心力を持っている団体はない。

那須川天心と武尊の試合が組まれるとすれば東京ドームでと噂されてはいるが、コロナ禍でなかったとしてもその規模にあった人が集められるかは懐疑的だ。

青木真也同様僕も那須川天心のファンでありウォッチャーであるが、ここに関しては冷静に見ている。

当時のUWFの人気がいかに凄かったがわかるだろう。

しかし、そのブームが災いとなり、スポンサーとのトラブルや人間関係の不信感から、1990年に第二次UWFは解散することとなってしまう。

離合集散を繰り返したUWFは事実上ここで幕を閉じ、リングス、Uインター、藤原組に分裂した。

しかし、分裂後もそれぞれがUWFの系統を踏襲しながらアップデートしたルールを採用していったことで、U系と呼ばれるようになり、UWFに対しての幻想を今でも持っているものは少なくない。

パンクラス

藤原組を経て船木はパンクラスを設立。

パンクラスは秒殺という新しい概念を持ち込んだ。

そして、秒殺で仕留めるためのカラダを作っていった。

力道山の相撲の流れを汲んでいたプロレス界もちゃんこ鍋が主流ではあったが、パンクラスは鶏肉とブロッコリーと味付けなしのパスタ、白米にバナナとミルクなどといったケンシャムロックらの食生活を積極的に取り入れたことで、日本人でも同じようなボディを手に入れることができるということを証明して見せた。

彼らは自らをハイブリッドレスラーと称した。

従来のプロレスラーに見られるような脂肪がたっぷりとあるカラダから一瞬で極めるための闘いに適したカラダにしていったのだ。

また、プロレスに代表されるようなヘビー級ではなく、現在で言うウェルター級やミドル級のクラスの闘いを魅せた。

ヘビー級でなくとも格闘技が出来ることを証明したことで、日本のMMAの裾野を広げることに大きく貢献したと言える。

また、ステロイドはカラダに悪いことを自ら実験台となって証明し、食事管理が持ち込まれたパンクラスの理念は、U系を見事に昇華させ、現在の格闘界の礎になっていると言っても過言ではない。

リングス

前田のリングスは、新しい海外の選手の発掘に力を入れていった。

後のプライドで大活躍を見せるエミリヤーエンコヒョードルやアントニオホドリゴノゲイラなどを発掘したのは前田である。

リングスのKOK(KIng of KIngs)は掌打ではあるが当時最も過酷なルールと言われた。

前田なりに時代の流れを汲みつつ考案されたルールではあったが、選手のカラダを守ることに重きを置いていたためオープンフィンガーグローブが採用されることはなかった。

前田は相撲のように各部屋から人が集まって闘いをする形を理想とし、各国にリングス支部を作っていった。

U系の中で最も海外選手を集め、プライドで活躍した選手を多く輩出した。

プライドで高田がヒクソンに敗れた時、会場は大「前田コール」で包まれた。

後にも先にもこのような現象が起こったのは前田だけだ。

みんなUWFの幻想が崩れるのを見たくなかったのだ。

UWFの大将は前田、ヒクソンを倒すことができるのは前田しかいない、そういった気持ちが一つになった瞬間だったのだ。

高田にとっては屈辱的な出来事ではあるが、UWFの幻想を崩した戦犯であるのだから、ファンからの前田コールによる制裁にもまた同等の意義があると言えるのではないか。

Uインター

高田のUインターでは、安生のヒクソン道場破り失敗。

ヒクソンとの闘いの布石がここで打たれた。

その後、新日本との対抗戦。

そこで、当時若手だった桜庭や金原・高山が、新日本の若手だった永田・石沢らとバチバチにやり合った。

高田は武藤・橋本らとIWGPの闘いを繰り広げた。

奇しくも橋本は高田を三角絞めでギブアップを奪って、関節技はUWFだけのものではないとプロレスの懐の深さを見せつける格好となった。

長州の名言「キレてないですよ、キレさせたら大したもんですよ」もこのUインターとの闘いで生まれたものだ。

安生はここでも失態を犯し、以降闘いに笑いを取り入れるようになり、安生の真剣勝負は事実上終止符が打たれた。

新日本との対抗戦以外ではゲーリーオブライトやビッグバンベイダーと戦いを繰り広げ、プロレスとのネットワークは保ちつつ、一方で北尾光司やトレバーバービックとの異種格闘技も積極的に行うなどして最強を目指した。

1億円トーナメントを呼びかけるなどして次々に話題を提供してはいったが、どっちつかずの迷走によってUインターは解散することになる。

その頃、何でもありルールのバーリトゥードの波が日本にも押し寄せてきたこともあって、高田はUインターメンバーとともにバーリトゥードルールとオープンフィンガーグローブを採用したキングダムを発足。

ちなみに、バーリトゥードを日本に取り入れたのは佐山だ。

どこまでも日本の格闘技にUの魂はついてまわるのだ。

もっと言えば、アントニオ猪木の直系とも言えるものたちによって昇華されていったと言える。

そう言った意味ではアントニオ猪木がいなければ今は存在していないとも言えるだろう。

Uインター時代につながりができた榊原と400戦無敗のヒクソングレイシーとの戦いの交渉が始まり、キングダムからプライドへと繋がっていく。

ここまでがUWFの歴史。

上のものに立ち向かい、時代を変えた。

UWFは、とてつもなく大きい一歩だったのだ。

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