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30年日本史00863【建武期】白旗城の戦い

 足利軍が九州で味方を増やしていた頃、新田義貞は5万騎の兵を率いてこれを討伐すべく西国に赴きました。加古川(兵庫県加古川市)に逗留している間に軍勢は膨れ上がり、気づけば6万騎になっていました。
 新田義貞は、足利方についた赤松円心を攻めるべく、赤松方の立て籠もる白旗城(しろはたじょう:兵庫県上郡町)に向けて進軍を始めました。
 ところが進軍の途中、赤松からの使者が新田軍の本陣にやって来ました。使者がいうには、
「この円心は不肖ながら鎌倉の逆賊どもと戦い、帝への忠節を全ういたしました。ところが恩賞として与えられた土地はひどく貧弱なものであったため、一時の恨みのために多年に渡る忠孝を捨て、つい足利将軍方についてしまいました。しかし(護良)親王の御恩はどうしても忘れることができず、こうして今は敵方に属してはおりますが、決して本心ではありません。この播磨国の守護職をさえ帝からいただけたならば、元のように味方に戻って忠節を尽くすつもりです」
とのことです。新田義貞は
「それは訳もないことだ」
と言って、京へ飛脚を立てて赤松を播磨守護に任命する旨の勅書をもらって来ました。これには10日あまりの月日がかかりました。
 ところが、赤松はその勅書を突き返し、
「この国の守護職は足利将軍からいただいたものだ。今更そのような勅書をもらったからといって何の役に立つというのか」
と言ってのけたのです。赤松の目的は、単に城の防備を固めるための時間稼ぎをすることにあり、最初から後醍醐方につくつもりはなかったというわけです。
 新田義貞は激怒し、白旗城を攻め落とそうと50日あまりも戦いました。しかし白旗城は四方がいずれも切り立った崖で、水も兵糧も潤沢な上、弓矢に長けた者が数多く立て籠もっていたため、ただ新田勢が討たれていくばかりでした。
 見かねた脇屋義助が
「このような小城にこだわって時間を無駄にしてはいけません。尊氏は既に九州を平定したと聞いております。尊氏が近づかないうちに備前・備中を平定して味方につけておく必要があるかと思います」
と述べると、義貞もやむなく山陽道を西に下って備前へと向かうことにしました。
 白旗城は現在、6万もの敵軍を2千人で50日あまり足止めした伝説の「落ちない城」としてアピールされており、上郡町のマスコットキャラクター「円心くん」が描かれた合格祈願の絵馬などが売られています。

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