見出し画像

マッチョってなに?から、同性愛者への勝手な期待

昨日授業を受けながら、なんとなく「子どもと話す マッチョってなに?」という本で書かれた一節への違和感を思い出していた。

この本は子どもと対話する形式でフェミニズムについて説明されているのだが、男性/女性の性役割の規範(=ヘテロセクシズム)が再生産されることが、レズビアンやゲイのカップルでもよくあるらしい、という話に連ねて

「わかりやすく言えば、女性どうしのカップルでも、男性どうしのカップルでも、男女の二人組を演じてしまう傾向があるということよ。」
「それとは違うふうに二人で生きる生き方を編み出すのは簡単なことじゃないわ。そうではあるけど、同性のカップルは異性のカップルより伝統から逃れる条件にはめぐまれているはず。」
「だから同性カップルは、いつか新しい道しるべを立てて、私たちの力になってくれると断言することができるわ。」
(クレマンティーヌ・オータン(2014)子どもと話すマッチョって何? 現代企画室 p36)

えっ
勝手に断言されても……。

この本では支配者/非支配者の関係性をいつか脱したいよね〜という話をしているのだが、

いや、異性愛者が作った規範を、同性愛者がわざわざ、異性愛者のために脱するための道しるべになりたいか?わたしはなりたくない……。



支配者/非支配者の関係性にうんざりしてる人たちは、同性愛者の"対等な"関係性に憧れることがある。


例えば、BL愛好家のなかでも「現実のゲイは、攻める側(タチ)と受ける側(ネコ)を交代したりする(=リバ)のだから、リバこそが現実に即してていい」とか言っちゃう人がいる。現実のゲイというフェアリー。

また、「作りたい女と食べたい女」という漫画に「春日さん(レズビアンの登場キャラクター)が男性らしい体格をしているから、男の代替なのではないか?」と訝しむような意見があったりしたのだが、

みんな、異性愛規範を恐れている……?


女性が社会で生きていて、男にトラウマを持つのは当然だ、とわたしは思っている。だが、あまりにも、同性愛に「対等」というイメージを持ち、異性愛規範の再生産に過敏になりすぎではないか。

ここで、異性愛規範にうんざりしてレズビアンになった人たちが、レズビアンの中でも支配者/非支配者の関係に陥ってしまった、ということが歴史上あったな……と思い出したのだが、本が手元になくて引用できない。「フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学(ベル・フックス(2003)新水社)」だった気がする……今エトセトラブックスで新しいのが出てるみたい。


同性愛は決して「対等な関係性で美しいもの」とは限らない。その現実を知って欲しいし、異性愛規範の再生産を演じている/演じたい同性愛者のことを除け者にしないでほしい。ましてや勝手に道しるべになんかしないでほしい。

そういうことを考えていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?