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戦士王列伝②ノーサンブリア王アゼルヴリス

今回は、6世紀末~7世紀初頭のノーサンブリア王アゼルヴリスです。

Æthelfrith
Aethelfrith, Ethelfrid, Aethelfrid, Eadfered
アゼルヴリス、エセルフリス、エゼルフリッド

表記は幾つかありますが、古英語の発音に最も近いと思われる
「アゼルヴリス」 で統一します。

7世紀初頭のブリテン

最初に、彼が生きた時代の英国について、簡単にご紹介します。

Wikipedia より

世界史の教科書にも載っている、ゲルマン民族の大移動。
ブリテン島にやって来たゲルマン民族の一派は、アングル人、サクソン人、ジュート人と、少数のフリースラント人でした。

その中で、ユラン(ユトランド)半島南部 (現在のデンマーク、北ドイツ) からブリテン島に渡って来たアングル人は、上記の画像にある赤色の地域に定住。
のちにアングロ・サクソン七王国の一つ、ノーサンブリア王国として知られるようになる地域には、バーニシア (Bernicia) とデイアラ (Deira) という二つの国が生まれました。

バーニシアは現在のノーサンバーランド、ダーラム、南スコットランドの一部。デイアラは現在のヨークシャーのほぼ全域です。
この時代、ケルト系のブリトン人たちは既にキリスト教徒でしたが、移住してきたアングル人、サクソン人たちはまだ異教徒でした。

異教の神々は、北欧とほぼ共通しています。
オーディン(Odin 北欧) → ウォーデン(Woden アングロ・サクソン) など。

バーニシア王イーダと子孫

西暦547年頃に王位に就いた最初のバーニシア王イーダには、息子が数人いました。
イーダ王亡き後、息子たちが順に跡を継ぎますが、バーニシアは国境を接する北方のスコット人(ケルト系)や西隣のブリトン人(こちらもケルト系)の国々との争いが絶えなかったことと、お家騒動もあって、それぞれの王の在位期間はとても短かったのです。

そんな中、台頭したのがイーダ王の孫、若きアゼルヴリスでした。
幼い頃に父を(おそらく母も)喪い、親族の争いの中を逃げ延びた彼は、ライバルを退けて593年(または592年)、バーニシアの王位に就きます。
王になるとすぐ、彼は北部の制圧に乗り出し、ダル・リアダ (スコットランド南西部の王国) のスコット人やアルト・カルト(上記の地図、ストラスクライドの一部) のブリトン人と戦い、破竹の勢いで勝利を重ねていきました。

ちなみに、「アゼルヴリス」 とは古英語で 「尊き平和」 という意味。
戦乱の時代、彼の両親は 「平和な国をつくってほしい」 との願いを込めて名付けたのかもしれませんね。
願いに反して? 本人は戦好きでしたが……(苦笑)

デグザスタンの戦い

603年、アゼルヴリスの侵攻に危機を感じたダル・リアダの王アイダン・マク・ガブランが各国に呼び掛けて兵を集め、バーニシアに対し巨大で強力な同盟軍を組織。英国史上に名を残す、デグザスタンの戦いです。

スコットランド南部の何処かで起こったこの戦いで、アゼルヴリスは寡兵でもってダル・リアダとその同盟軍を壊滅的に打ち破り、勝利を得ました。アイダン王の軍勢は大部分が殺され、王自身は逃亡したそうです。

デグザスタンの戦いでの勝利はアゼルヴリスの勇名をとどろかせることになりましたが、弟のテオドバルドを戦死させてしまったことで、彼にとっても高くついた勝利でした。
ブリトン人たちは、次々に国境線を塗り替えてゆくアゼルヴリスを 「Flesaur」 (ねじ曲げる者) と呼んだそうです。

その後、北部の国々とは協定を結んだようで、ダル・リアダとピクトランド (スコットランド北東部にあったピクト人の王国) は後年、バーニシアからの王族の亡命を受け容れています。
ダル・リアダはともかく、ピクトランドは何故かというと、アゼルヴリスの最初の妻ベバはピクトの王女だったという説があるのです。
おそらく、政略結婚ですね。

とはいえ、アゼルヴリスはこの妃をとても愛していたようで、バーニシアの都は元々ブリトン人の言葉で 「ディン・グァリエ」 という名だったのを、「ベバンバラ」 (ベバンバラ、ベバンバーグ → 後にバンバラ、「ベバの砦」 の意味) に改めました。
ただし、彼は604年頃、隣国デイアラの王女アクハと再婚しているので、ベバは早くに亡くなったのだろうと思われます。
(ベバとの間にエアンヴリスという名の息子がいます)

隣国デイアラを併合、ノーサンブリア王国の基礎をつくる

ブリトン人の国々を制圧したアゼルヴリスの野心は、次に同朋アングル人の国に向けられました。
隣国デイアラです。
604年頃、デイアラの王アゼルリクが急死し(病死説、暗殺説などあり)、アゼルヴリスは王の姪アクハと再婚(もしくはデイアラを征服してアクハと結婚)。それにより、アゼルヴリスはバーニシアとデイアラを統合、ノーサンブリア王を名乗りました。アクハとの間に、彼は7人の子供(息子6人、娘1人)をもうけています。結婚生活が12年間だったことを考えれば、夫婦仲はきっと良かったのでしょう。

ところで、デイアラの王族に重要な人物が2人いました。
アクハの弟エドウィンと、甥にあたるヘレリクです。
彼らはアゼルヴリスの追跡を逃れるため、亡命を余儀なくされました。

ヘレリクは後年、身を寄せていたエルメット王国(現在のリーズあたりにあったブリトン人の国)に裏切られ毒殺されてしまいましたが、エドウィンはウェールズのグウィネズやマーシア(現在のイングランド中部)に逃れ、12年もの間、亡命生活を送ることに。

覇王(ブレトワルダ)への途

さて、近隣のブリトン人の諸王国を従えて上王となり、ノーサンブリア (ハンバー河以北の地) を治める最初の王となったアゼルヴリスの次なる野望は、やはり 「覇王」 (ブレトワルダ) としてブリテン全土に君臨することだったと思います。

覇王、ブレトワルダ。
何故だかとても心に響く言葉です。

古いローマの町チェスター(デヴァ)でウェールズの王国ポウイスやグウィネズと戦い、そこでも勝利したアゼルヴリスは、ついにエドウィンの滞在先を突き止めました。

次代の覇王を争うライバルのイースト・アングリア王レドワルドがエドウィンを庇護していることを知ると、レドワルドに賄賂と共に使者を送り、エドウィンを殺すか引き渡すかせよと迫ります。
応じなければ戦も辞さないと戦意満々のアゼルヴリスに威嚇されたレドワルド、一旦は応じようと心を決めるのですが、妻に 「客人を売るような真似をしてはあなたの名誉を損なう」 と言われ、思いとどまったのだとか。

妻は強し!(笑)
覇王を目指そうって人が、ちょっと情けないですよねぇ、レドワルド王。

レドワルドは、アゼルヴリスの要求に応じるふりをしつつ、こっそり軍を上げて、猛然と北へ行進を開始したのです。
おのれ!とか、卑怯な!と言いたいところですが。

意表を突かれたアゼルヴリスは軍を組織する間もなく、劣る兵力での戦いを余儀なくされ、デイアラとマーシアの国境付近とされるアイドル河の東岸でついに戦死。

覇王になることは叶いませんでしたが、一代で最も領土を拡げ、上王としてブリトン人の国々を影響下に置き、勇名を馳せた英雄王は、やはり戦場で生涯を閉じたのでした。

その後のノーサンブリア王たち

アイドル河の戦いの後、レドワルド王の後押しもあって、エドウィンがノーサンブリア王として君臨。
彼は晩年キリスト教徒になり、ヨーク大聖堂のもととなった教会を建て、沢山の業績を残しました。

エドウィンが633年にハットフィールド・チェイスの戦いでマーシアのペンダ王、グウィネズのカドワロン王の連合軍に敗れて戦死した後、北方に逃れていたアゼルヴリスの息子たちがノーサンブリアに戻り、父の野心を継ぐことになるのです。

息子たちの一人が、聖オズワルド。
父が目指した 「覇王」 (ブレトワルダ)の称号も手にし、周辺諸国からも尊敬される存在となりました。
オズワルドの跡は弟のオズウィが継ぎ、彼もまた「覇王」となり、ノーサンブリアの黄金時代を築いたのでした。
ちなみにオズウィはエドウィンの娘を妃にしています。これでようやく旧バーニシアと旧デイアラがノーサンブリアとして一つの国になったといえるかもしれません。

それにしても、アゼルヴリス、エドウィン、オズワルドといった歴代のノーサンブリア王も、そしてライバルの王たちも、殆どが最期は戦死。

王が兵を率いて武勇を示す、英雄たちの時代。
厳しさの中にも溢れるロマン、泡沫の如く消えた夢。

それでも、彼らは精一杯生きたはず。
その証が歴史として伝わっていることが嬉しく、深い感慨を覚えます。

主要参考文献

John Marsden : NORTHANHYMBRE SAGA The History of the Anglo-Saxon Kings of Northumbria, Llanerch Press, London, 1992.
Paul Gething, Edoardo Albert : NORTHUMBRIA The lost kingdom, The History Press, 2012.
Bede : Eclesiastical History of the English People, Penguin Classics, 1995.


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