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小山田圭吾問題の最終的解決への感想

少し前に話題になっていた時に読んだが、まだ感想をどこにも書いてなかった。短い文章では難しくTwitterではノータッチにしていた。

▼整理:

小山田圭吾の過去のいじめ問題については、小山田氏の発言(25年前の雑誌の記事の内容)は確かに批判されるべきものだったが、小山田氏個人に対してどこまでも加熱していく世間からのバッシングに、私は『違和感』というか「どうも的を外した批判が多いな」「この人達あんまり分かってなくて攻撃してないか」と感じていた。外山氏の文章はそんな私の胸中のモヤモヤを言葉で表現してくれたという感じだ。

90年代初期の空気感を伝えるリアルな記憶を紹介しつつ、バッシングする側への批判を一切しないで展開する外山氏の文章は、コンテンツの中身を知らなくて批判することがどれだけ愚かであるかを内省させる優れたコンテンツだ。どなたにとっても一読する価値があると私は思う。

私は投稿者の外山恒一氏のことは正直ほとんど知らない。10年以上前の東京都知事選で『政見放送を常識を覆す使い方をした最初の人』くらいの認識だ。これは私の年齢にも関係しているかもしれない。当時大学生だった私は外山氏の政見放送に衝撃(笑撃)を受けて、面白がってYouTubeを調べたら内田裕也氏の「Power to the People」を知ったくらいには無知だった。しかし、その後にいわゆる「政見放送パフォーマンス」をする立候補者(フォロワー?)が多く現れたことや、彼がいなければNHKから国民を守る会もスーパークレイジー君も出現が数年単位で遅れたのではないかと思うと、彼は間違いなく時代のキーマンだと思う。

外山氏の経歴を見るとちょっとアブナイ人(常識を外れた人)だなという印象は受けるかもしれないが、少なくともこの記事で言っていることは全て常識の範囲内だと私は思う。不要な攻撃もなく、文章はロジカルで、見事だ。ご自身の話をされる時だけちょっとぶっ飛んだ思想が顔を出すが、ガチなのかキャラなのかはともかく、そういう脚色や外山氏個人の思想は横に置いておいて、議論の本筋にちゃんとついていけるリテラシーがある方なら、そういう「余計な一言」もリズミカルなエンタメ要素として受け止められるだろう。

私の感想を書くに先立って、私なりに外山氏の記事を要約しておく。(氏の文章の趣を殺してしまうので不本意ではあるが、私の考えの整理のために必要な工程でもあった;未読の方にはぜひ原文も参照されたい。)

小山圭吾問題の最終的解決まとめ:

第1章
小山田圭吾氏が炎上するきっかけになったブログ記事は「明白なる悪意に基づいて巧妙に構成されたデマ」であり、フェイクである。
当該ブログ記事の筆者が「悪意を持ってやった」と打ち明ける別の記事が存在していたが、指摘されてそちらだけ削除したことも分かっている。
問題になった小山田氏の発言を含む二つの雑誌を幸運にも持ち合わせていたので、当該雑誌から事実を読み解いてみる。

第2章
つい先日まで小山田氏に興味を持たなかった人達が炎上させている。
ますは小山田氏が当時どういう存在だったかを押さえる。
93年という時代背景をおさらい。(完全自殺マニュアルとか)
問題になった一つ目の雑誌はロッキンオンジャパン
問題になった記事は『2万字インタビュー』記者は山崎洋一郎氏。
小山田氏はバンドブームのカウンターとして現れたオシャレ系。
ロッキンオンジャパンはゴリゴリのバンドが好きな人が読む雑誌。
その雑誌の読者にも響くように小山田氏の人間臭いところを引き出す。
雑誌は全体的に小山田氏の情けないエピソードを綴っている。
その中で「僕はいじめをしてしまったような人です」という流れ。

むしろ後悔とか自責の念が告白されているように見える。
記者の山崎氏は62年生まれだからイジメ問題を正しく理解できない。
当時はミュージシャンサイドに原稿をチェックさせなかったのは事実。
当時の雑誌の読者には表現が多少まずくても補って受け止めるリテラシーがあった(現在みたいに部分的に切り取ってそこだけで批判しない)。
炎上後に山﨑氏が小山田氏をきちんと擁護しないのは絶対に卑怯である。

第3章
記事に「救われた」といういじめ被害者が少数いるのだけは不可解だった。
しかし読み返すことで今回はその謎の答えに到達した。
問題になった二つ目の雑誌はクイックジャパン
問題になった記事は『いじめ紀行』著者は村上清氏。
村上氏のライターとしての能力が低すぎて地の文がとにかく不快である。
いじめと向き合うとしながら自身がいじめられていたことを直視できず逃げているので筆者の立場が不明瞭で、文章が意味不明で、鬼畜に見える。
小山田氏の発言も空気読まない感じに切り貼りされて鬼畜に見える。
小山田氏がいじめの加害者だったのは小中学生である。
小山田氏は高校の時は昔いじめていた友人の世話をしている。
小山田氏は、今ではいじめと思っているが、当時はいじめと思っていなかったことについては頑なに譲らない。
加害者の心理から考えると、いじめは悪いことなので自分がいじめをしていると認められない。そして「いじめじゃない」ゆえにリミッターが効かず行動はエスカレートしていく、という様子が克明に綴られている現場のリアルを映した貴重なドキュメントである。
小中学生なんて、よほど早熟でなければいじめをするサル同然の生き物。
障碍者であろうが健常者であろうがいじめをするのは等しく良くないので、被害者が障碍者だったからという理由で小山田氏を批判するのはおかしい。
小山田氏が過去のいじめについて詳細かつ克明に覚えているのは驚きである。いじめではないと自分に言い聞かせつつも、どこかでこれはいじめかもしれないと思っていたから、10年以上に渡り何度も記憶を反芻していたからだと思われる。
小山田氏は被害者本人への直接の謝罪を被害者から拒否されている。

冒頭の謎の答え:被害者の中には「今更簡単に謝るな、当時のことを抱えて今後も真摯に生きろ」という気持ちになる方もいるはずで、そういう方には小山田氏の一方的に謝罪を押し付けないで、むしろ誠実に受け止めているからこその告白に救われたのかもしれない。

小山田氏の真摯な告白を、まるで正反対なものに誤認させた最大の責任は村上氏にある。
それは当時、実力も覚悟も足りなかった村上氏の些細な失敗だ。
小山田氏は実績も才能もあるミュージシャンであり、またイジメ問題に関する最良レベルの語りを実践してくれたあまりにも誠実すぎる人物である。
窮地に立たされている小山田氏を傍観してダンマリを決め込むのでは、村上氏は悪質ないじめ加害者と同じの卑怯者である。

要約だけで1500字を超えてしまった。

省いた内容も結構あるので興味を持った方はぜひ原文も読まれたし。

▼感想:

私が読んで共感したのは「当時の雑誌が読者に求めていたリテラシー」という部分だ。私は外山氏より一回りほど年下で、93年当時はまだ読んでいなかったが、98年ごろからロッキンオンジャパンは毎月購入して読み漁るような文系ネクラ高校生だった。98年はDragon Ashと椎名林檎が最初に頭角を表した時期。まだ実家の倉庫には当時のバックナンバーがあるはずだ。だからこのリテラシーの有無については一際強く共感した。

ロッキンオンジャパンってものすごく小さい文字がびっしり並んだ活字媒体なのよ。内容は玉石混交で、当時すでに厳しくなりつつあったテレビの諸々の制約(98年はギルガメッシュナイトが放送終了した年でもある)を横目にメジャーからアンダーグラウンドまで自由闊達にしている空気感にゾクゾクしながら、東京を夢見る地方の高校生(私です)はこの雑誌を読んでいた。スペースシャワーTVとロッキンオンジャパンが心の拠り所だった。それは大人はわかってくれない的な世界観で創られている雑誌に見えた。テレビや大手出版社の雑誌なんて比較にならないくらいクールに思えた。最近はどうなってるのか知らんけども。

当時はネットニュースなんて黎明期だから、今みたいに大衆がスマホで短いニュースを読むカラダになっていなかった。サブカルチャーは読まないヤツはマジで全く読まないし、読んでるヤツは浴びるように大量の活字を読む時代だった。現代みたいにすぐに無料で手に入る時代ではなく、金銭または時間を消費して初めてゲットできる情報ばかりだったので読み手の気合の入り方が全然違った。そのようなディープな活動を通じて適切なリテラシーを習得していた読者が多かったのだと、私自身の記憶と実感から思う。電車男が現れる前からのオタクをなめるなよ。

問題の雑誌が刊行されたのは93年だ。当時テレビではまだ女性の裸や暴力など過激な表現が許されていた。もちろん当時から問題提起自体は存在したが、深夜の時間帯などマジメな人達の目の届かないところでサブカルチャーは旺盛に展開していた。活字もそういう逃げ場になりえた分野だったと思う。そんな前提を全部無視して、文章の一部を切り抜いてきて、あくまで2021年の文脈で解釈して、著名人から一般人までポリコレ警察が寄ってたかって徹底的にリンチしているのは「なんか違うな」と思ったのだ。

小山田氏がやったことは悪いことだ。だが、彼は1969年生まれだ。彼が小中学生だった1970〜80年代ってそもそも社会が未熟でけっこうメチャクチャだったんじゃないのかしら?そんなメチャクチャを引きずる90年代初頭に、サブカルチャーに片足突っ込んだ雑誌が面白くするためにある事ない事を書きまくった可能性を小山田氏を批判する人達は考慮できていたのか(もちろん考慮した上で批判するのは自由やで)。食わせたうんこだって「虫のフン」とかそいうレベルの話を盛りまくった結果かもしれない。今の子供は知らないけど、私が小学生だった90年代前半はいじめや悪ふざけでそういうことはしててもおかしくない感じはあるかな。

というか、「うんこ食わせた」と発言した人物よりも、その発言を文面で読んで「この人は本当に同じ学校に通う障碍者の生徒に人糞を食わせた」とストレートに解釈する人間のほうが想像力なさすぎで私は怖いのだが。強く批判していた人達はみんな本気でこれを信じていたのだろうか。私がたまたま身近に「この手のハードないじめ」を経験しなかったラッキーマンなだけで、みんなこのレベルの壮絶ないじめを目撃したり参加したり被害に遭ったりしているのだろうか?(人のうんこって具体的にどうやれば人に食わせられるの?現実的に考えて成功する方法が思いつかない。)

もっと考察を進めよう。外山氏の記事を読むに、雑誌には小山田氏は直接は手を出さないタイプだと書かれていたらしい。私もこれに該当する部分はTwitterに出回っていた写真で読むことができた。「僕はアイデアを出すだけで手は出さない」と書いてあった。しかしだとしたら、小山田氏が世間の追求に対してこれ以上仔細にありのままに語っていくと、彼の当時の同級生達を批判して社会的に追い込んでしまうことに繋がるかもしれないではないか。そうなると責任の押し付け合いになって、それこそみっともない有様になる。それに、そんなことをしても小山田氏のことを許さない人がゼロにはなることは絶対に有り得ない。これは損をするだけなので、私が彼の立場でも仔細は回答せずに事態を収拾させる方法を探すだろう。小山田氏は今後も批判され続けることも見据えた上で全部一人で受け止めようと決意したのかもしれない。

今回の炎上は仲間内だけの居酒屋トークが流出してしまったようなものだ。飲み会のようなクローズな場所では武勇伝とか過去の失敗談をする人いるでしょ?閉じた媒体で読者数も知れているし読者への信頼もあったから彼はここまで心を許した発言を残したのだ。そんな今ほどネット新聞やSNSが発達していなかった時代の『ロッキンオンジャパン』というカルチャー誌(ちょっと頭がおかしいか熱に絆された人だけが手に取るディープな読み物)を掘り出して、何を鬼の首をとった気でいるのだ。と私は思っていたが、読み手のリテラシーとはまさにそういうことである。

▼考察:

※ここから先は外山氏の記事には関係ない話になります。

外山氏はあくまで発言の引用元ソースに基づいて考察を述べられているが、私はその先の炎上騒ぎについても思うところがある。炎上が「はじまったメカニズム」は外山氏が解説してくださった通りだと思うが、その先の「激しく燃え上がった」原因は他にもあると思う。それはコロナ疲れとオリンピック反対派である。

最近の、不祥事を起こした著名人を社会的に抹殺するまで批判をやめない姿勢が強まっているのは本当に悲しい。月並みな表現だがみんなコロナで疲れてしまっているのだろう。苛立ちをぶつける先が欲しいのではないだろうか。

そして、開催前まで何かとオリンピックを潰そうとする人達に勢いがあって、彼らが攻撃できる箇所を探すのに躍起になっていた、それに便乗して騒ぐ人達が多くいた。小山田氏はそういう連中にハメられた可能性は無視できないと思う。

オリンピック絡みで言えば、ラーメンズの小林賢太郎氏にも似ていることが起きた。過去のコントの中で「ホロコーストはダメです」という文脈のブラックジョークだったのに(まあそれでも「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」というワードチョイスは国際社会の感覚では十分な失言なのだが)、そもそも人種差別をほぼ経験していない日本では実感しにくい問題を、日本向けのメディアに載せていたのであって、それが数十年経って発掘されてすごいスピードで共有された、まさにインターネット時代になったからこそ問題にできた事案と言えるだろう。現在のようにグローバル社会が形成される前の20年も昔のコントで、彼は当時すこし不勉強なせいで不適切表現を使ってしまっただけで当時から現在に至るまで差別主義者ではない。それを言葉尻だけで炎上して、JOCは罷免してしまったから世界には「彼は差別主義者です。JOCは差別主義者を雇ってしまうようなマヌケ組織です」と表明してしまったようなものだ。嘆かわしい。騒いだ国民も。正当に弁明しようとしなかった組織も。

私が一番腹が立ったのは、現実的に考えて中止も延期も不可能なタイミングまで延々とオリンピック反対の抗議を続けて、世間の批判を集めやすい材料をあれやこれやと探し出して攻撃しまくっていた人々(インフルエンサー)である。彼らから見ればオリンピックが少しでも不評になるポイントを作れば後から攻撃材料にできるわけで、開会式や閉会式など運営組織側でコントロールしやすい箇所を潰せばそういう目的が達成しやすいわけだ(競技自体は選手が頑張るだけなのでテロでも起こさない限りコントロールできないので)。そして裏方を潰したいなら本番が近ければ近いほど高い効果が期待できる。本番直前のほうがより現場が混乱するからだ。なんて卑怯なやり口だろう。

そういう批判の裏に見え隠れしていた思惑まで私の意識は及んで、ますます小山田圭吾問題は見ていて不快だったし、しかしながらどんなに「悪意のあるフェイク」であろうとも小山田氏の過去のいじめもまた悪行であることに変わりはないので、なんとも歯切れが悪くてやりきれない気分だった。小山田氏がTwitterで表明した謝罪文を読んで彼の出自や歴史に思慮を巡らせて、またこの困難な時期にオリンピックを実現させようと奔走している運営の努力や巨大プロジェクトを動かすことの大変さを考慮して、許したり建設的な解決方法を探ったりできる余裕がなくなってしまった人が多い今の世の中を悲しく思った。

これは不適切な表現になるかもしれないが、学生や専業主婦あるいは就職していても大きな取引やプロジェクトに参加したことがない人には、巨大なプロジェクトにかかる人手や資本や段取りの大変さが想像(実感)できない方が相当数おられるのではないかと思う。全体に対する割合は私もよく分からないが、仮に国民の1%だと想定しても日本は人口1億人オーバーの国なので100万人に達する。で、そういう社会やお金の動きの想像力に欠ける人達がゼロリスクやコンプライアンスといった「無理問答」を武器に、社会やお金を回している人達を攻撃している側面がある。もしかしたら先述した「悪意のあるインフルエンサー」に乗せられているだけかもしれないが。

問題なのは、そういう「わかっていない方々」でもTwitterをはじめSNSでは手軽に声を上げられるし、さらに言うと「わかっていない方々」は会社などの組織から時間の制約を受けにくくSNSで活動しやすい状態にあるのでトレンドを作りやすい傾向があると思われる。一方で、社会やお金を動かすのに貢献している人達はどうしても仕事に追われる傾向がある(そういう人ほど周りから信頼されて仕事が集中する傾向がある)ので、よほどのインフルエンサーでもない限りSNSでパワーを発揮するのは難しい。

更に言うと、わかっていなくて暇でテレビばかり視聴している人達に至っては輪をかけてタチが悪くなる恐れがある。テレビの偏向報道ばかり見てすっかり情緒が扇動されてしまっているので、オリンピック前までは危機と不安を煽りオリンピックに反対するテレビに同調して自粛していたけれど、いざオリンピックが始まると嬉々としてメダリストの活躍を放送するテレビに流されて「オリンピックがやってるんだから自分も大丈夫」と勘違いして外出するようになって感染者が増えていると言う側面さえありそうである。これは当たっているなら全く愚かで情けない話で、私の妄想であればいいのにと願う。

▼回想:

障碍者差別の話に戻そう。

私が小山田圭吾氏の気持ちに寄り添って考えられる理由がもう一つある。それは私自身がかつて障碍者に対して無自覚なままに差別してしまった体験があるからである。

当時、私は小学校2年生で、毎朝の通学路の途中に障碍者学校の送迎バスが止まるポイントがあった。地方の田んぼの一本道で、新興住宅街が近くにあったこともあり、何百人という生徒が同じ道を通るのだが、その中でバスに向かって「シンショーシンショー」と揶揄する子供がいた。

私は子供なりに障碍者を馬鹿にすることはよくないと察していたので障碍者本人に向けてそんな言葉をかけることはなかったが、健常者の友達同士で遊ぶときに相手のことを愚弄する目的で「バカ」や「アホ」の新しいバリエーションとして「シンショー」という言葉を遣うことはあった。

ある日、家の兄弟喧嘩でその言葉を発したことで、それを知った父親は強く私のことを叱責した。私は怒られるとダンマリするタイプだったので両親が私が反省したことをどれほど感じ取ってくれていたのか定かではないが、子供心にその言葉を発することの重みが「シャレにならないレベルで悪いこと」なのだと理解して、その日からそういう物言いは一切しなくなった。私には早い段階できちんと注意してくれる大人が近くにいて幸せだったと思う。

しかし相変わらず朝の通学路では件の言葉を楽しそうに唱和する児童で溢れかえっていた。もちろんバスに向かって罵詈雑言をかけるような子供はまずおらず、友達同士で「わーいシンショーだ逃げろー」と騒ぐ感じがほとんどだっと思う。だが口にするべきではない言葉であることに違いはない。実際の障碍者が聞こえる距離にいるのだ。しかし私は友達を注意するわけでもなく、ただ押し黙ってバスの隣をやり過ごすことしかできなかった。バスの中の生徒は私たちの方を見ていた。

やがて通学路にバスが現れなくなった。生徒から悪口を言われるのが辛いのでバスは時間を1時間早くに変更したのだと両親から聞かされた。それは嫌な想いをさせてしまったなと改めて思った。朝起きるのが苦手だった私はその点についても申し訳ないと思った。相手を愚弄するような発言は相手の心を攻撃するだけにとどまらず、私たちの配慮に欠けた振る舞いが誰かの過ごしやすさや権利を阻害する可能性があることを学んだ。

「お前たちがシンショーシンショーって言うからだ」と父親にはまたしても叱責された。私は一度怒られた当日からその言葉は一切発していなかったが、押し黙っていた。過去に言ってしまったことに変わりはないし、私は周囲の友達を止めなかったのだからバスに乗っていた生徒から見れば同じことだ。

この経験は私の道徳観念の形成に大きな影響を与えた。悔しさと申し訳なさから当時何回も記憶を反芻したからこそ、30年経った今でもはっきり覚えているのだと思う。もし当時なんとも思っていなかったならとっくに忘れていたはずだ。しかし今でもしっかり覚えているのが私が重く受け止めた証拠だ。それは外山氏の記事で指摘されていた「小山田氏が今でも当時のことを詳細に覚えている理由」とまさに一致する。

何度も繰り返し思い出すことで、それは記憶に強く刻まれていき、考察も深まる。普通に日常生活をしていてふと障碍者に出くわした時などに一瞬回想するのだ。あのとき通学路で本当に辛い想いをしたのは一緒にバスを待っていた親御さん達だったのだろう、と私が気付いたのはもう少し高学年になってからだった(このとき私はもう中学生になっていたかもしれない)。

このように人間は誰しも成長しながらサルからヒトに進化するものだと私は考えており、そのような未熟ゆえの過ちは誰でも犯しうると考えている。子供とはそういうものだ。私は幸運にも早い段階で注意してくれる保護者に恵まれ、その後の学校などの環境がたまたま障碍者と隔離されていたので問題行動が起きなかっただけだ。先に述べた通り私は悪いことだと理解した後でも周囲に注意できなかったので、もし周囲が問題行動に突っ走る環境だった場合、同調圧力に負けていた可能性はゼロではない。

そしてこれはまさに小山田氏の炎上した発言の原文から読み取れるポイントでもあったのである。当時の雑誌の記事で、小山田氏は学生時代にいじめに加担するしかできなかった自分を卑下してインタビューに答えていたのだ、という外山氏の考察に私は賛同する。小山田氏の「今思えばあれはいじめだったと思います。でも当時はそう思っていませんでした」という言葉は決して彼が鬼畜な人格だから言えたのではなく、むしろ逆で、彼が素直な人格だからこそ未熟だった自分の過去を正面から受け止めて、自身の胸中を誠実に答えようとしたからではないだろうか。

誰もが自分の胸に手を当て、深く省みて熟考し、冷静になって元ソースまでたどるまでは安易な批判をしないように心掛けていれば、ここまでひどい炎上騒ぎにはなっていなかったかもしれない。

了。

最後まで読んでいただきありがとうございます。ぜひ「読んだよ」の一言がわりにでもスキを押していってくださると嬉しいです!