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「ミレイユの右へ」12

第十二回 傷



 あからさまに不審な目で出迎えたのは清家呉服店の店主で、絢の父親の源蔵《げんぞう》だった。
 いつもほとんど店の方にいるため、家に遊びに行っても出会うことがなく、数年ぶりの対面で、まるで久埜のことなど覚えていなかった。
 が、それでもおろおろと取り乱しながら事情を説明する久埜の言うことを一頻り聞いたが、
「何だと! この馬鹿者が!」と、突然物凄い怒声を上げた。
「絹子《きぬこ》! おい、絹子!」と絢の母親を呼ばわり、
「保険証を持ってこい。伊々田外科へ行くぞ!」
 言い終わる前には、下駄を突っ掛けてもう店を飛び出していた。
 久埜は、一所懸命知らせに来たのを頭ごなしに叱責されて、恐怖と混乱で胸が一杯になった。何も肝心なことが伝わっていない気がして、気持ちの張りが切れてしまい、
「何で……?」
 と、つぶやくとその場にへたり込んだ。

 絢の母親は泣きじゃくっている久埜から何とか話を聞き出すと、さすがにそれ以上の叱責はしなかったが、
「これはまた、結構大変なことが起きたものだわ」
 と、何時になく冷静な口調で言い、ハンドバッグの中の保険証と現金を確かめると、
「行きましょう」と、有無を言わせず久埜の手を引いた。
 とぼとぼと、着物姿の絹子の後を付いて行く。
 知らせに走っていたときには永遠の距離に思われていた裏通りが、妙に矮小化されて感じる。
 こんなにこの街は小さかったのか、と自らの感覚の変容を自身で感じてしまう。これもきっとこの事故が切っ掛けで、何かが有無を言わせず変わっていっているのだと、いつもの自分らしくない直観的かつ出口の無い考えが次々と浮かんできてしまい、どんどん不安になっていった。
 そして、いつの間にか伊々田外科の看板が見えてきた。
 そこは昔からある、入院設備などない小さな診療所だった。
 入り口のガラス戸を開けると、いきなり待合室だが、そこで蕗おばさんが源蔵の前で頭を垂れていた。
「うちの商品のせいです。何年か前に他所で同じような事故があって、それで壜が改良されたと聞いとったんですが……」
 源蔵は憤懣やるかたない表情で、それを無視して、
「傷や」
「は?」
「あれの顔に傷が残ったら、只じゃおかんけんの」
「……」
 その脇をすり抜けるようにして、スリッパに履き替えた絹子は「処置室」の掲示の出ている部屋につかつかと入っていった。
 大量のガーゼで目の上を圧迫された絢が寝かされていたが、院長の姿は無い。
「怪我は?」
「眉の下辺りを二センチほど」付き添っていた看護婦が物怖じもせずに答えた。
「ギザギザの?」
「いえ、スッパリと。切創です」
 それで絢の母親は幾分安心したようで、口調が変わってきた。
「もう、縫っていただけたのですか?」
「いえ、その件で院長先生が相談を」
 丁度奥の扉が開いて、小柄で禿頭の、地域では有名な伊々田院長が姿を現した。
「ああ、お母さん。実は市立病院の形成に知り合いの医師が丁度今日いましてね」
「お世話になります。……形成ですか?」
「形成外科ですな。小さい針で、傷が目立たなくなるように縫ってくれます。今電話をしたから、そちらの方へ」
 他の細々としたやり取りがあった後、伊々田院長は看護婦に救急車を呼ぶように命じた。
「救急車ですか?」
「まあ、ある意味一生ものの問題かもしれんから、罰は当たらんやろう……」

 やがて仰々しく現れた救急車に絢と母親が乗り込み、源蔵がタクシーで後を追った。
 一連の出来事を久埜は傍で見ていたが、まるで目まぐるしいテレビドラマを眺めているようで、思い返すと少し現実感を失っていたようだった。
 ……絢に声を掛けられなかった。
 そう悔やんだが、もうどうしようもなかった。
 思いがけないことが起こると、ぐらぐらとどこまでも動揺してしまう自分を情けなく思った。
 それはやはり、芯が無いせいだ。きっと、人としての基礎や基本が出来ていないんだと痛感して泣いた。

 絢の傷は、処置後入院するほどではなく家へ帰されたが、ガーゼの付け替えや抜糸に週を跨いで通うことになった。
 やはり、女の子の顔の傷と言うことで気丈な絢でも気落ちが激しいらしく、抜糸まではと断りを入れて学校を休んでいた。
 久埜はお見舞いに行かなければと思っていたが、あの憤怒の形相しか記憶にない、怖い源蔵がいたらと思うと、どうにも踏ん切りが付かない。それにまた、両保護者間と、蕗子さん、それに清涼飲料の会社の担当者も絡んで、かなり面倒臭い話し合いがいつの間にか持たれていて、残念なことにおかしな方向に紛糾している様子だった。
 原因はやはり源蔵で、関係者全員に責任があるというようなことを言っているらしい。
 絢本人が、そんなことはないと証言したらしいのだが、頑として聞き入れない様子だとのこと。
 絢の母の絹子は、少なくとも子供達にはその責はないとすぐに納得してくれたのだが、頑迷な夫との意見の食い違いに、噂だがどうも家庭内でも雰囲気がおかしくなっているようだという。
「とにかく」
 池尻家の一家全員が夕餉の食卓を囲んでいる際に、文太が「胸糞が悪い」と先に毒を吐き出してから続けた。
「お前らは何も悪くない。何も心配することはない」







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