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「ミレイユの右へ」04

第四回 友達


 翌日の放課後、久埜は昨夜の言質を忘れられないように、外出を宣言して家を抜け出した。
 いつもはどこかへ消えてしまいがちな文太が、面白くなさそうに店番をしているのを横目に見ながら外へ出る。丁度入ってきた源さんが睨まれて戸惑っていたが、それは知ったことではなかった。
 とは言え、取り敢えずは一緒に宿題をしようと約束した柄木早紀《からき さき》のところしか、行く当てはない。
 家を出てから全く目と鼻の先の場所なので、自由な時間を得たはずだが、どうにも開放感というものは感じられなかった。
 自分は怖ろしく狭い世界に生きているのではないかという疑念が、脳裏に涌き上がった。
 ひょっとして、一般的な同じ年頃の子に比して、とんでもなく行動範囲が狭すぎるのではないのか。
「……うーん」
 唸って、悩んでみたが答えは分からなかった。
 しかし、早紀の家でもある中華食堂「金星軒」は、それなりに異世界感はあった。何しろ、看板からして悪目立ちするどぎついデザインで、入り口のガラスケースにはこれでもかと過剰に食品サンプルが並んでいる。
 どこの製品なのか、いま一つ食材の精巧さが足りないので、総じてどことなく客に不安感を与える面妖な店構えなのだった。
 だが、ここは天下の食べ物屋さんなのだ。酒は無くても生きていけるが、こちらはそうではない。
 ……と、昔文太と早紀の父が喧嘩をした時に、そう啖呵を切られたのを印象的に憶えていた。
 「月曜定休日」という札の下がっているガラス戸を開け、中を覗く。休みの日は店のテーブルが使えるので、そちらで勉強なり、おしゃべりをすることが多かった。
 早紀の部屋は、店舗住宅の常でかなり狭いのだった。
「早紀ちゃーん?」
 姿が見えないので、そう呼んだが、
「いるよ」
 カウンターの蔭から早紀が立ち上がった。
「何か探しとるん?」
「ピーマン落っことしただけ」
「何か作っとったと?」
「何を作ろうかと思っとっただけ。おなか空かん?」
「空いた」
「ちょっと食べようよ。何食べたい?」
 早紀の両親は、買い物に行って留守とのことだった。夕飯は、自分で作っても叱られはしないらしい。
「メニュー表に無いのでもいい?」
「賄いだし、あんまり材料無いし、難しいのは作りきらんよ」
「じゃあ、お任せで」
 早紀は少し首を捻ると、ピーマンのヘタを指で押し込み、包丁で二つに切った。
 種を流しに払いながら、
「豚バラがあるから、味噌で炒めようか」
 ピーマンを大きな包丁で手際よく切ると、今度は既に剥いてあったニンニクをスライスする。
「やっぱりニンニク入るんだ」
「嫌い?」
「いや、もちろん大好きやわ」
 重そうな包丁の切っ先が早紀の指先の辺りを掠める度にヒヤヒヤしたが、とうに慣れてしまっているらしく、淀みなく作業は進んでいく。
 同じように親の手伝いをしていても、家業でこういう差がついていくのかなあ、と久埜は思った。
 自分は、まだ料理に自信ないし。……どうも刃物が苦手だ。
 酒屋なんて、こういう技術的なものって憶えようがない。
 早紀は業務用のバーナーを操作すると、使い込まれた鉄製のフライパンをその火に掛けた。
 傍らにある容器から油を注ぎ馴染ませる。
 やがて、熱せられたそれに冷蔵庫から取り出した豚肉を投入し、ガンガン炒める。
「赤いところが無くなるまで、よーく炒めます」
「何で?」
「豚はよく焼かないとお腹壊すらしい」
「そうなん?」
「お店では、最重要事項やわ。ええと……もういいやろ」
 バーナーを中火にすると、切っておいたピーマンとニンニクを投入した。
 少し炒めたところで、
「お味噌を入れます。……そして、みりん」
 溶けた味噌が絡まって、フライパンの中身が泡だった。
「砂糖を少々入れて、出来上がり」
 ご飯と、鍋にあったスープを用意して、テーブル席で食べた。
「うんうん、おいしいわ」
 手順を見ている限り特段のことはやっておらず、味も想像できたはずだったが予想より美味に感じて久埜は驚いた。
「簡単なのにおいしいねえ」
「うん、これ定番よ」
「得意料理?」
「料理なのかしらねえ?」
「え? 料理でしょ?」
「うーん、思いっきり家庭料理よね、これ。……お店では出せないし」
 そういう線引きがあることに、久埜は少し戸惑った。
「早紀ちゃんは、将来お店を継ぐん?」
「他におらんし」早紀は一人っ子だった。
「……それに、あたし料理好きやしな」
 ああ、早紀は家業にちゃんと愛情を持っているんだと思って、久埜は少しショックだった。

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