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「ミレイユの右へ」02

  第二回 角打ち 


 ……だが、この話の主人公は酒屋の娘、池尻久埜《いけじり ひさの》となる。

 久埜の生まれ育った住居兼店舗である池尻酒店は、北九州市第二の商業地域である黒崎地区にあった。
 市の主要産業である製鉄業と、その関連施設。窯業及び金属加工等の工場群は、市の北部を抉るようにしてある細長い湾、洞海湾周辺に密集しており、そこへ通勤する労働者とその家族が地区の顧客であった。
 そのため、駅前から半円放射状に商店街が発達し、周辺には歓楽街も形成されていた。
 久埜の店は、メインストリートからは外れていたが、路面電車の停留所からは近く、それを利用する通勤客の立ち寄りやすい場所にあった。
 一角はミニ商店街の様相で、八百屋や鮮魚店もあり、食堂の類いも多く営業していた。 友人である柄木早紀の中華料理屋は、ほぼ斜向かいの目と鼻の先にある。
 冒頭の遠足から二年ほどが過ぎ、久埜は小学校六年生になっていた。

「久埜、ちょっと買い物に行ってくるよ」
 と言って、母親の富美《とみ》が店を出て行こうとしているのを見て、一升瓶から客のコップに注いでいる酒の流れが乱れた。
「またあ? さっさと帰って来てよ」
「夕飯のおかずが何にもありゃあせん。文句なら、毎度毎度餓鬼みたいに何もかんも食い尽くすうちの男どもに言わんね」
「いっつも、そんなんで店番ばっかりやし」
「まあまあ」
 目の前で注いだばっかりの酒を一気に半分も飲み干して、常連の源さんが言った。
「もう慣れたもんやろうもん。小学校の三年くらいからこっち、ここはもう久埜ちゃんの店みたいなもんばい」
「好きでやっとるんと違うんやきね」
「まあ、毎日こんなおいさんの相手ばっかりは嫌やろうな」
 カウンターで瓶ビールを飲んでいる、これも常連の徳重さんが言った。
 源さんの方は煤けた作業着姿で頭にタオルを巻いていたが、徳重さんの方は技術職とのことで、この日は背広姿であった。
「しかも全員酔っ払いやしな」
 北九州の小売り酒屋には「角打ち」と呼ばれる一杯飲みの習慣が、何時の頃からか定着していた。
 それは、製鉄所の炉が二十四時間燃えているため、その作業を三交代で休みなく行わなくてはならなかったのが遠因だと言われている。
 労働者は仕事帰りにどうしてもアルコールを欲するわけだが、居酒屋や小料理屋は早番の帰宅時間にはまだ開いていないので、一般酒店が立ち飲みを提供したのである。
 しかし、便利で安いため、結局どの勤務帯の帰宅時間でも彼らはやって来てしまうのだった。
「酔っ払いは出入り禁止です」
 久埜が真顔で言った。
「そんな無茶な」
「節度を持って飲まんと、どこで地雷を踏むか分からんよ」
 確かに、正体を無くすようなことがあると、チンピラに因縁をつけられ痛い目に遭うというようなことが、全くないわけではない。
 だがまあ、一部の歓楽街を除いてそういう噂は最近は聞かなかった。
 久埜が店番をし出してから、ここで喧嘩が起こったこともなかった。
 入れ替わり立ち替わり、ほぼ全員常連である大人達が、決まった時間にやって来ては酒を啜って小銭を置いていくだけだった。
 大抵は黙って飲んでいるか、知った顔の人と一時の会話を交わす。
 母親の富美がいるときは世間話を楽しんでいるが、まだ小学生の久埜に話しかけてくる客というのは、そんなにはいなかった。
 ガラス戸になっている店の間口の前に、軽トラックが停まった。
 ドアの開け閉めの音がして、乗っていた父親の文太とすぐ上の兄の耕《こう》が荷台のビールケースを降ろし、両腕にぶら下げて入ってきた。
「配達まだ終わらんと?」
 カウンターの中から久埜が訊いたが、二人は冷蔵庫から黙々とビール瓶を取り出してケースに詰めている。
「今日はスナップスと試合やけん」と、ぼそりと耕が言った。
「また?」
 耕は少年野球のクラブチームに入っていた。通っている中学校でも野球部なのだが、文太が無類の野球好きで、そのクラブチームのコーチでもあるのだった。
 耕の上の兄二人は高校生で、それぞれ地元の野球の強豪校へと入っている。
 要するに、池尻家の男どもは全員が野球馬鹿なのであった。
 せっせとトラックに積んでいるビールは、お互いのクラブチームの父兄との打ち上げで消費してしまうためのものなのだ。
 文太のチーム、熊井ドリームズはやや弱小だと聞く。
 つまり、練習試合を組むに当たって、これで相手を誘惑しているわけであった。
 完全な持ち出しなわけで、富美がいると絶対に夫婦喧嘩が始まるはずだった。
 が、ひょっとしたら昨晩の男どもの飯の食いっぷりは、この間隙を作るための策謀だったのかと思って、久埜はさらに呆れ果てた。
 奥へ姿を消していた二人が、ユニフォーム姿になって戻ってきた。
「じゃ、行ってくる」
 文太はそれだけ言って、ガラス戸を閉めて出て行った。
「……」
 溜め息をついて、久埜はカウンターの中の丸椅子に腰掛けた。
 富美はまだ帰ってこない。
 きっと、仲の良い駄菓子屋の女将さんとでも話し込んでいるのだろう。
「……何だかなあ」
「久埜ちゃん」チーズかまぼこのビニールを剥きながら、源さんが言った。
「いろいろ悩みの尽きないところ悪いんだが、もう一杯もらえんでしょうか?」
「……はいはい」
 瓶の栓を開けたとき、嗅ぎ慣れていたはずの安酒の匂いが本当に嫌だと急に思った。

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