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「ミレイユの右へ」07

第七回 果物ナイフ


 千秋は次の日まで夕食後に出されたが、案の定瞬く間に消費されてしまった。
 富美が座卓に新聞紙を広げて、手際よく果物ナイフで皮を剥くのだが、その様子を見ていて久埜は妙にばつが悪くなってきた。
 そう言えば、りんごの皮を剥いたことがないことに気がついたのだ。
 家で出るフルーツと言えば、冬場のみかんか夏場のスイカ、あるいはバナナと言ったところで、りんごはあまり記憶にもない。
 フルーツに限らず、野菜を切るのも、精々家庭科で習ったレベルなのだった。
 この間の早紀の包丁使いの手際も思い起こされて、実は刃物使いは女性の必須技能なのだという現実に打ちひしがれていると、富美が明らかにその思考を読んでいる風で、にやにやと笑いながら言った。
「剥いてみるかい?」
 久埜は苦笑いをして、それをやってみたが、やはり初めてな上に刃物に慣れていないので、皮がすぐ途切れてうまくいかなかった。
「やっぱり、お父さんに似て不器用なのかねえ」

 戸棚にしまっておいた分を放課後、紙袋に包んで早紀の家に持って行った。
 店を覗くと、背を向けて客が一人いたが、いきなり厨房の早紀の父親と目が合った。
「早紀なら奥にいるよ」
 豚肉を醤油洗いしながら笑いかけてくる。
「すみません。通らせてもらいます」
 そう言って店の中を突っ切ろうとしたが、席について酢豚を頬張りながらビールを飲んでいる客は、常連の源さんなのに気がついた。
「お、久埜ちゃん。最近、店で会わんな」
「近頃は、こっちで飲んどると?」
「いや、ここの後で行くけど?」
「後も先も、家で下地を入れてきとるとやろ?」と、厨房から茶々が入った。
「入ってきたときには、とっくに酒臭かったばい」
「……あ、ああ、そうなんだ」
 ありがたいやら、呆れるやらで、早々にその場を離れた。
 奥にあるドアを開けると、そこは休憩室で早紀がカーペットの上に仰向けに寝転んでいた。
 ヘッドフォンをしており、赤いウォークマンが顔の横に並んでいる。
 ドアを閉める音で気がついたらしく、
「……ああ、久埜ね」と、気怠そうに起き上がった。
「何、聞いとったと?」
「いやあ……」目線が外された。
「おニャン子とか?」
「いやいや」
「まさか、聖飢魔Ⅱ?」
「外れすぎ」
「冗談よ。どうせフミヤ……」
「……違う」
 差し出されたヘッドフォンから漏れてくる歌声で、すぐにその歌手が誰なのかは分かった。
 この年の四月に飛び降り自殺をした女性アイドルのもので、一時は学校でも大変な話題になっていたので、事件の経緯は久埜も知っていた。
「……けど、早紀って隠れファンやったと?」
 そのへんに転がっている外装が色とりどりのカセットテープには、皆几帳面な字でチェッカーズの曲名が書き込まれている。
 ウォークマンの筐体の中にあるカセットは何か異質で、メーカー品のメタルテープではないかと思った。いつも買い迷うけれど、高いので手が出ない奴だ。
「いや、絢に借りたんやけど。聞いてたら、気のせいかもしれんけど、気が滅入った」
「早紀は思い込み激しいから」
「あんたに言われたくないな」
 二人で、一頻り笑って、
「けど、絢ってこんなの好きなんだな」
「知らんかった?」
「知らんかった」
「いつも一人で聞いとるみたい」
「へえ……けど、何かそれ危なくない?」
 そのアイドルの事件の後にあった、連鎖自殺の騒動が思い起こされた。
「うーん、でもなあ、良い曲なのは間違いないなあ。絢は物凄く感受性高いけれど、曲が好きなだけと思う」
 早紀は、腕組みをして評論家めいた口調でそう言った後、
「で、何か用事?」と、いつものけろりとした表情に戻った。
「……それこそ、絢のお母さんから貰ったりんごのお裾分けに来た」
「りんごかあ。一緒に食べよ」
 そう言うと、早紀は明らかに水屋から果物ナイフを取り出そうとして立ち上がった。
「あー、これは千秋と言って、丸囓りが多分一番おいしい品種……」
「生憎、前歯の治療中なんよ」
 お盆とナイフを持ってきて、さっさと早紀は林檎を剥きだした。
 富美よりも上手い。
 シュッシュッと、良い音がして皮がずっと繋がっている。
「お見事や」
「あんたはお侍か……」
 櫛形に切り分けられたそれを、二人で摘まむ。
「……実は、うまく剥けんのよ」
 咀嚼したりんごを飲み込んだ拍子に、思わずポロリと本音が出た。
「先に櫛形に切ってから、皮を剥いたらいいんとちゃう?」
「うーん」
 それは何だかくやしい。
「聞いた話だと、中学校の家庭科でりんごの皮剥きのテストがあったとか」
「ええっ」
 それは将来的に凄くまずいではないか。
「それと、このテープ、絢があんたにも貸していいって言っとった。帰りに持って行き」
「本当?」
 イジェクトボタンを押して取り出した黒いカセット。
 タイトル欄には細い文字で、「二人だけのセレモニー」と記されてあった。


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