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「ミレイユの右へ」06
第六回 りんご
久埜は兄弟が多いせいで、毎月の小遣い事情は厳しかった。
絢の部屋でその範疇を超えてしまって手元に置けない雑誌を貪り読みながら、りんご煮をスプーンで食べる。
「う?」
甘ったるい純愛漫画が、更に何やら不可思議な彩りをされたように思えた。
「美味しいねえ、これ」
「そう?」
食べ慣れているせいか、絢は自分の前に置かれた皿を引き寄せようともせず、ずっとコミックスに目を落としていた。
「甘いだけでしょ? レモン汁を入れると、もうちょっと垢抜ける気がするんだけど、母が嫌がるのよね」
「そうなの?」
「皮と一緒に煮てもピンクの可愛らしい感じになるんだけど、これが一番おいしいって言って譲らないの」
「へえ?」
それはきっと、青森での家庭の味だったからだろうと察したが、それは言葉にしなかった。
「むしろ千秋だったら、丸ごと囓る方が好き」
コミックスが、ぱたりと倒された。
「ぱりっとして歯触りが良いのよね」
「へえ」
自分が今まで食べてきたりんごの品種が何だったのかなんて、全く意識していなかったので、久埜は少し興味を引かれた。
「甘みと酸味のバランスが絶妙」
何だか唾液が湧いてきて困ったので、リンゴ煮をぱくつく。
「そんなにおいしいんだ」唾液は治まらなかった。
「多分」絢は片目をつむって見せた。
「帰りに山ほど持たせられるわよ」
「これ多すぎて困っているの。良かったら持って帰ってちょうだい」
二階にある絢の部屋から降りてきた途端に、そう声を掛けられた。にこにこして立っている絢の母の前には大きな紙製のファンシーバッグが置いてあり、山盛りのりんごが顔を覗かせていた。
「あ、いえ、そんな」
一応、遠慮したが、よくあるその手のやり取りを経て、帰路は大荷物に悪戦苦闘することになった。
絢の家から見える範囲内では何とか平気な顔をして歩いていたが、角を折れると地面に袋を置いて汗を拭った。
「小学六年生の体力を考慮しとらんわ」
何となくの想像だが、産地での収穫の時などはこれよりもっと多くの量を運ぶのかもしれない。
ふうふう言いながら、ようやく商店街の突端が見えてくると、
「これ割と新しい品種なのよ。実家で力を入れていてね、出来がよほど良かったのか、どうだとばかりに父が送ってきたのよ。でも、世間様に広めないと売れないでしょ? 皆さんでどうぞ」と、絢の家の玄関の出際に、そう言われたのを思い出した。
その際、「おばさんの実家は、やっぱり、りんご園なの?」と訊いてしまったが、
「そうよ。子供の頃からずっとそう。家の窓から見るとね、東西南北一面全部りんご畑なの。……遠くに岩木山が見えてね」
それはまた、こんなゴミゴミとした街とは対極のところから来たんだ、と妙な感慨が湧いた。どんな経緯でそうなったのかは知らないが、そのおかげで今、絢がいるわけだ、などとも思った。
どうにか家の前に立ったときには、全身汗だくだった。もう手に力が入らない。
当たり前だが、店の奥には家族が集まっている気配がある。
「ここまで苦労して運んだお宝を、あの餓鬼のような連中に提供するのか?」と、脳裏で何かが囁く声がした。
確かにもっともな意見だったが、この数では久埜一人で食べきる前にほとんどが痛んでしまうことだろう。
久埜は店の入り口の方へ回ると、カウンターの中にいた耕を押しのけて、一番奥へと入っていった。
「何だよ」
「これは、早紀ちゃんちにお裾分けするんだから、盗っちゃ駄目だよ」
と言って、自分のストック分も素早く戸棚に入れ、それを閉めた。
そして、一個を差し出し、
「これ」
「何なんだよ」
「絢ちゃんから、お兄ちゃんに」
「えっ?」
驚いているうちに、さっさと後ろ手で仕切りの硝子障子を閉め、皆のいる居間へ向かった。
口封じのおまじないだが、まあ、多分そう言う解釈も可能だから、決して嘘ではない。
嘘ではない? ……うーん、微妙。拡大解釈って奴?
などと考える。
「何だ、その袋?」と皆に訊かれ、貰ったことを皆に報告した。
「ご飯の後に剥こうかね」と、富美が言ったが、
「あたし、どうしても一個今食べたい。もらうね」
袋の中の一個を取り出し、台所の蛇口で洗って齧り付いた。
身離れがいい、というのか絢の言っていた通りのぱりっとした食感。甘酸っぱい果汁が口の中に溢れ、しゃくしゃくとして、いかにもりんごを食べている気がする。
「うーん、やっぱりこれって丸囓りが最高!」
背後で、黙ってその様子を窺っていた皆がぞろぞろと腰を上げる気配がした。
そして、並んで蛇口でりんごを洗い、齧り付くと、
「おお」とか「ほう」とか言って唸っていた。
ふと見ると、富美が洗ったその一個を持って、店番の耕の方へ行ったようだった。
が、仕切りの硝子障子を開けると、既にりんごを握りしめた耕がいて、ただただ一心不乱にそれを眺めているのであった。
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