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「ミレイユの右へ」14

第十四回 夜の街



 歩きながらものを考えると、いろいろな事象がまとまりを見せてくるものだ。
 絢のお父さんに叱られて怖かったが、あれは逆の立場だったら、文太も相当怒ったことだろう。話し合いが揉めているというのも、きっと引っ込みが付かなくなっているせいではないのか。……へそを曲げたら、文太だってやりそうなことだ。
 揉め事は……これからも、きっといろいろ起きるのだろう。
 起きないに越したことはないのだが、対処できる力を持っておかないと、きっと駄目なんだろうなと思う。
 その辺が、大人になると言うことなんだろう。
 ……あの時。
 蕗子おばちゃんの言った「もう子供じゃないんやから」という一言。
 あれで……突然だったが、久埜は子供時代の終結を感じていた。
 ……お告げのような気分?
 であるから、今は少しこうして時間を感じずにちょっと考えをまとめてみたい。
 ……じゃないと、これから起きるいろいろな事に対処出来る気がしない。
 堂々巡りぎみの思考だが、久埜はさらに没頭した。
 子供時代の終結を覚悟すると、不思議なものであれから時間が一気に動き出したような新しい感覚があった。
 凪の海でふわふわと揺蕩うような世界から、波の打ち寄せるような場に移動したような感じ。
 厳しいところもあるが、視界が広くなって、例えれば波に揉まれ洗われる砂粒が見えるようになってきた気がする。
 まず、季節の移ろいを感じるようになった。
 ……冬が近い。
 街ゆく人々の衣服に、冬を感じる。夫婦、親子連れ……。食事帰りだろうか。
 今日は土曜日だから人出も多い。
 LPレコードを購入したのか、それを小脇に抱えた大学生風の男性。連れだった若い女性。
「家で見よう」という楽しげな会話。
 ……ならば、あれはレーザーディスクという奴だろうか。
 アニメが高画質で好きなだけ見られるという……。
 私だって、将来就職したら、それくらい買えるだろう。いや、買ってみせる……というか……。
 ……就職って……一体、何の仕事をやるのやら?
 いつもの袋小路にぶち当たって、久埜は頭を抱え踵を返した。

 散々歩き回っているうちに、商業地区を突っ切って、滅多に来ない通りに出た。
 人通りも少なく、小学生が歩いているとあまり宜しくない雰囲気もある。
「……そろそろ、帰ろうかな」
 家への近道と思しき路地があったので、足早に歩いていると、やがてどんどん道幅が狭くなり、通れるところはゴミ箱の並んだ、いかにも食堂街の裏手といった感じになった。
 街灯も少ないので、そこを急いで突っ切ろうとすると、ふいに木戸が開いて、白衣を着た人影が現れた。
 手に長い包丁を持っている。
「わっ!」
 吃驚して立ちすくんでいると、
「……久埜ちゃんじゃねえか」と、こちらも相当驚いたような声を上げた。
「……? 源さん?」
 それは、池尻酒店常連の源さんだった。いつもはよれよれの洗い晒した作業着姿なので見違えてしまった。
「何で、板前さんの格好をしてるの?」
「何でって……」
「製鉄所で働いてるんじゃないの?」
「そっちも一時期やってたんだけどねえ。俺は元々板前なんだよ」
「お知り合いですか?」
 木戸の内側から声が掛かった。
「一時期やっていたと聞こえましたが、『剥き源』と異名を取った方が、金属関係で働いていたんですか?」
 建物の中の明かりが百ワット電球なのか、やたらと眩しい。
 逆光になってよく見えなかったが、聞き覚えのない声の主は、どうも高校生くらい……晴彦と同い年くらいの男子のもののようだった。
「まあ……いろいろあるのよ」
 源さんは久埜の格好を睨め回すようにして、
「……久埜ちゃんの方もいろいろありそうだな」と言って、にやりと笑った。
「まあ、店も今閉まったし、折角だから賄いでも食って行きなよ。後で家まで送るから。……真史(しんじ)、しばらく相手してろ」
 そして、そう言い置くと、さっさと中の厨房らしき場所へ行ってしまった。
「相手……相手って……」
 真史と呼ばれたその少年は、本当に困ったような顔で、
「ちょっと、包丁の手入れをしないといけないんで」と言っただけで、背中を向けて外にある小さな洗い場で、俎板の上に包丁を並べだした。
「今から研ぐんですか?」と久埜が訊くと、
「いえ、包丁を磨くペーパーで汚れを落とすんです。研ぐのは板前さん個人の責任でやるんですよ。他人がやると、癖が付いちゃいますから」
 ふーん、個人の責任なのか。
 責任とは、そういうことでもあるのか、と久埜は思った。
「でも、癖ってそんなについちゃうもんなんですか? 包丁って鋼で出来てるんでしょう?」
 そして、そんな疑問が考え無しに口を突いて出た。
「この包丁なんか、柄を籐で巻いてありますが、これは使い込んで木の柄がすり減ったので補強するためにこうしてあるんです。実は刃のある鉄の部分も、柄と比例して減っているんですよ。多分二回りくらい小さくなってるんじゃないかなあ。包丁って、この案配も考えないと長く使えないんですよね……」
 少年は、実に楽しそうに答えてくれた。
 白衣に包まれた肩や背中は線の細い感じがして、久埜は見慣れた兄達の逞しい体とはまるで違うな、と思った。



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